弐つの遊戯卓

【五年目】 毎日頑張ってやりくりしていきてます。物書き、音ゲーと合唱やってます。最近DTMとか始めました

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たのしい仲間が増えました

昔ははきだめみたいに、それしか能がないのかよと思うくらいに、更新しまくってたみたいだけど、ここ2,3年は月1か2くらいなので、振り返るのがとてもたやすい。いろいろあったなあ。端から見たらよく分からないただの雑記でも当時の状態を思い出せて、すごく懐かしい。不思議なもので、昔の自分の文章を読むのは、死んでしまった人間の意思を読むのと似たような気分がする。いや自分は実際に知っていた人間が死んだ後に彼女/彼の残したものを読んだこと無いので知らないけど、しかし自分が書いたとはいえ……というか自分が書いたからこそ、死者を見るような眼差しを使って見てしまうんだと……思う。一年前の自分なんざ粉々になってますね。毎日毎日地道に殺してきましたから。一年前の自分と、今の自分が何も変わっていない、人は変化することはない、っていう人は嘘つきか怠け者か傀儡ですね。そんなこと有り得ない。自分のことを変わってない、って言い張れるのは自分ではない他者だけだし、その他者がいるということは無事に生きているという何よりの証左なわけですね。

サークルの話ですが、昨日最後の先輩を送り出して、俺の代が最年長ということに……もう現役ではないんだけど、う~ん、なんというかなあ。たった一年年上なだけで、どうしてこうも自分が子供みたいな気持ちになってしまうんだろうなあ。いつまでたっても、追い越すことは出来ないような、あなた達がいなければ自分で立つこともできない子供みたいだ。もう年もとったしいい加減大人だと思っていたけど、そんなことは全然なかった。あなた達の前にあっては、俺はいつまでもガキのままで、一生を終えるしか無いんだと。そしてこういう気持ちが、純粋な『尊敬』というわけなのだと思いました。そういう関係にあっては、敬語なんて必要ないんですねえ。本当に。
これから就活ですけど、そっちでも尊敬できる人のもとで働きたいもんですわ。それなら残業だっていくらでもしよう。いくらでも力を貸しますとも。正しいことならいくらでも。それなら別に裕福でなくても良いなあ、と思う。
とか書いちゃって、ブラック思考に思われるととても困るのですけど。正しくないなら、ふつうにやめますわ。

みたいな感じで心構えを書いてると、意識高い系みたいで嫌だし、後で読み返しても嫌な気分になるだろうのでこれくらいで抑えておこうと思う。が。
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  1. 2015/02/24(火) 01:24:17|
  2. 尋常の日記・雑記
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読書嫌いよ、永遠に

本を読みたい、っていうのが単純な欲求としてありますね。
いつだったか、全く小説が書けなくなった時期があるんですね。それはまあ、何年も絶筆して劇的に復活した作家とかに比べれば大したことのない、単に面倒臭がって、とか、続きが書けなくなって、とかいう理由だったのかも知れないが……やっぱり本を読んでいなかったから、だと思う。
そのうちに、本の感想について「面白かった」とか「興味深い」というありきたりなワードは使えなくなってきた。使わなくなった、ではなく、使えなくなった。そんなことはハナから問題ではない。でも自然に生きていれば人から意見を訊かれることはあるのだから、そういう時はごくシンプルに、「良い」と答える以外ない。結局、「面白い」とか言った時は「良い」の言い換えなんだよなあ、ってなる。じゃあつまんないものは? 「クソ」と言う。幸運にも、クソと呼べるものは読んでいないが、「ダメ」といったものならあるなあ。

本を読むのが嫌い、とか嫌だ、とか言う人がいるのはよくわかるし、何人にも出会ってきたし、寝言で「本を読めない」と断言する人も見たこと有る。俺が好んで書くようなレトリックも「鬱陶しい」と言って嫌がる人もいるんだろうと思う。というか、まあ、いる。
ある文学が難解で意味がよくわからないから、投げ出す人もいるし、怒り出す人もいるし、それを逆手に取って「こんな難しいのも分かるんだぜ」とアピールする人もいる。
正直言うと、こういう人たちを前にしたら俺は、無力でしかない。どうすればいいんだ、と途方に暮れる。
でもそれは、単純な《誰もが文字を読むことができる》という前提に立って、怯えていたんだと思う。それは、決して自明なことではない。ドストエフスキーの生きたロシア時代は文盲率が9割、或いはもっとを超えていたらしいです。そんな状況に比べれば、今は本当に生温い。読むのが嫌いなだけで、読むことはできるんだから。どんなに読むのが遅くても、いつかは読み通すことができる。嫌になっても終わらせることができる。
でもさ、それが苦痛でしょうがない、と言う人もありそうだが……そんなの当たり前ですね。俺なんて本を読んで苦痛を感じないことなんてないですよ。学術書だけじゃない、ラノベを読む時にも苦痛はある。何故苦痛か? 自分が破壊されているから。昨日までの自分がどこかで破壊されているからです。その悲鳴を聞いているからです。昨日の自分と今の自分、絶対的に全く同じでは有り得ない。これは屁理屈とかではなく……事実だと思ってます。自然状態で、何もしなくても死へと一歩一歩近づいている。変化している。だから、本を読む前と読んだ後の自分は『絶対』に変わっている。その自然な変化にねじれを加える存在なんです。昨日までの自分を破壊し、新たな明日の自分に組み替える作業が、本を読むということです。作り変えるんだから痛いに決まってます。
つまり、本を読むのが嫌いというのは、ビビってるんですよ。自分を壊したくない。
冲方丁の『天地明察』で、算哲が関孝和の著書を読もうとして、ものすごく躊躇しているシーンをよく覚えています。自分の世界が決定的に破壊されることに怯えている。でも、読む。何故読むか? 読みたいからです。娯楽としての読書だけではなく、学問としての読書にも当てはまることなんですね。
娯楽としての読書はうまく麻酔がしてあるんですね。壊れる音が聞こえないように。だから、売れる。まあ、別に娯楽として読むのなら別にそれでいいが……と思いますがね……でもね、やっぱり勿体無い、と、思う。俺は伊坂幸太郎を読むときでも、その麻酔を出来る限り無視しようと心がけます。理不尽だけどね。でも、そういう、消費の渦に巻き込まれるのはダメじゃないか……って。

本を読んで何が面白いの? って言われたら、面白いから読んでるんじゃない。「良い」から読んでるんだ、と答える。
もう立派なマゾヒストですね。破壊されることに喜びを感じている。
そして、全てがここからようやく、始まる。
たったそれだけのことなんだと、思いながら物語をいま、書いてます。
いずれ、言葉の制約から自分達は開放されるはず。どんな形になるにせよ。しかし、それは始まり続けることでしか、得ることができないのではないかと、思いながら。
  1. 2015/02/14(土) 03:15:34|
  2. 尋常の日記・雑記
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プロフィール

可児 珊士

Author:可児 珊士
大学生。
元音楽(合唱)部員。旧BASS。
ギターが欲しい年頃。
作家志望。
本陣:埼玉
カラオケ行くと声的な意味で別人化。

アイコンは柊氏より頂きましたΣd(゚∀゚d)

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