弐つの遊戯卓

【五年目】 毎日頑張ってやりくりしていきてます。物書き、音ゲーと合唱やってます。最近DTMとか始めました

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善悪の彼岸

 ニーチェの『善悪の彼岸』を今年の夏にでも読もうと思っているんですが、漠然と夏に読みたいと考えている本を並べていくと一生かかっても読めないような分量になるんじゃないかと思います。
 日本を「恥の文化」とか呼ぶこともありますが、恥というよりも強いのは劣等感なんじゃないかなあ。僕の周りには、異常なまでに周囲からはみでることを恐れる人が結構居るけど、こういう人たちは劣等感を持たないように過ごす術を実行しているんだ、と。恥をかいたときに僕らは曖昧な笑みを浮かべるけれど、これが何かしらの支配に対する媚びへつらい、劣等感を隠そうとする心理の働きだとしたら、こういう時に感じているのは恥じゃないんです。本当に恥ずかしいなら笑いませんからね。英単語だとこの二つが分けられていたような気がするが、不勉強なために覚えていない。

 クリストファー・ノーラン「ダークナイト」を観ました。バットマン。今更。最近、何を見ても今更感が尋常じゃないですが、多分一生この「今更」という感慨はつきまとうんだろうと思います。例によってネタバレしまくりますが、この作品もネタバレなんかで全く色褪せる作品ではないので構わないでしょう。もちろん嫌な人は読まないことをオススメします。
 バットマンなんてさっぱり知らなくて、というかそもそもアメコミヒーローに興味がなかったんですけど、金曜ロードショーで「アベンジャーズ」を観てノリが掴めたので、この際観てみようかと思って昨日酔っ払ったままツタヤで借りてきた。ノーラン監督のバットマンシリーズ三部作の二作目とかいうので、二作目だけピンポイントで観るのはどうかと思ったけど、全然平気だった。でもまあ、ある程度バットマンというキャラについて知っておく必要はある。
 まず、なんて闇が格好いい映画なんだ、と思った。取調室の闇にぽっかりと浮かぶジョーカーの白塗りの顔。トゥーフェイスの醜悪な部分を覆う闇。そして、バットマンの眼と口を露出させる夜の闇。ダークナイトと言っているだけに、黒が本当に格好がいい。それに比べれば僕らの認識する「この世の闇」なんぞは、本当に暗いだけの場所にすぎない。あんなド派手な黒を目の前にしたら、あらゆる陳腐な闇なんて電気を消されたトイレみたいなものだ。この映画に漂う黒は……何なんだろう。分からない。見えるか? この闇が。そんなシンプルな問いなんだろうかなあ。
 伊藤計劃が”世界精神型の悪役”と、ジョーカーを評して言っていた。世界精神型というのはざっくり言って、「お前ら見てみろ、これが『悪』って奴だ」というものを見せつけてくる悪役。僕らは映像を観ることでしか映画を鑑賞できないが、文字通りの意味で僕らに悪というものを見せつけてくる、映画のための悪役だ。実にジョーカーは小市民に向かってどういうものが悪かというものを、懇切丁寧に教えていく教師だった。市民を人質に、バットマンの素顔を要求するジョーカー、それに応じないバットマン、そのことを批難する市民たち。市民のために戦っていたヒーローが、たちまち悪者に早変わりだ。この場合、僕らは何を悪と見れば良いのか。一般的に善良な市民の皆様は、もちろん悪の根源のジョーカーだと言うんだろうが、この映画はそういう意見すら飲み込んで吸収してしまうだろう。悪は連鎖していく、などという後付の説明をも求めていない。
 僕らは思ったよりも、見たくないものを見ていない。見たくないものを見なければいけなくなった時でさえ、自分の意思をできるだけ遠ざけようとする。自分が、責任を被りたくないから。そうしないと、僕らは生きていけないから。優秀な地方検事のハービーは、爆弾による業火によって顔(というか身体全体)の半分が焼けただれる怪我を負う。耳にまぶたはないから聞きたくないことを聞いてしまうが、目は閉じることが出来るから見たくないものは見ないで済む。でも、ハービーは左の目の瞼を(というか目の周囲の肉もろとも)失っているために、彼の眼球は常に見たくないものを見続ける、そしてそこに「トゥーフェイス」という怪物の誕生をみる。そんな閉じることのできない眼球の前に、ジョーカーは悪をチラつかせるのである。するとどうだろう、彼はその一身を復讐へと駆り立てていく。とにかく、その悪意を発散させなくては気がすまぬようになる。
 正義感に溢れるヒーロー検事であった彼が、悪に染まる。ジョーカーはその事実を市民へと突きつけようとする。
 どうだ、これが人間だ!
 ジョーカーは札束の山を燃やす。そこには正義と対立するような悪でなく、むごたらしい現実をまざまざと突きつけるような、いや、我々を外へと突き放すような「何か」がそこに存在する。そこに物語なんて存在しない。ゆえに悪の教師たるジョーカーは、聴衆に分かりやすいように物語を聞かせてくれるんだ。己の顔についた傷の由来。父親による母親の殺害の話。そうして私は出来上がったのだよ。私というむごたらしい存在がね、とでも言いたげに。
 だから何だっていうんだ? そういうことが分かって安心するのかい、君らは?
 そんな毒々しいニュアンスをも感じる。目の前にいる人間が、自分とは決定的に違う、何から何まで違う物質で構成された非日常的な存在であると認識して、自分をそういう悪意から隔離しておける、その安易に安堵へと逃げ込みたい気持ちを誘発して、そこに恐怖を上乗せするのだ。実はそんなものは非日常でもなんでもないんだぞ、と。
 テレビ出演する弁護士を殺さないと市内の病院を爆破するとジョーカーが脅迫すると、テレビ局に大勢の人が詰めかけた。弁護士を殺せと抗議する人間、弁護士を殺そうと発砲する人間、弁護士を殺そうと車で突撃する人間。
 では、そういう人間と、ジョーカーの違いは何なんだろう。
 瞼があるか、ないかの違いなんじゃないか。目を瞑っていると、こうなるのだ。ジョーカーは人々から瞼を剥ぎとっている。見たくないものを、まざまざと見せつけてくる。どうだね、これが悪だよ。悪意だよ。ちっぽけな欲望に見切りをつけた、彼岸からやってきた悪なんだよ。と。
 ……。
 映画のラスト、爆弾満載で浮かぶ二つのフェリー。
 人々は沈黙をする。沈黙の中で、自らの悪と、一人ひとりが戦っていた。ただ、黙って。震えながら。
 バットマンはそこに現れる。そして……後押しをして、立ち去る。ジョーカーが悪の大海へとトゥーフェイスの背中を押したのと同じように。
 警察に追われる彼の背中へ、ゴードンが告げる。「彼は街に必要な人だ。ただし今は”時”が違う」。

 何故かニーチェに関して言うと、「善の彼岸」についてしか語られない……らしい。
 僕のチープな読解力と表現力で申し訳ないが、善というものは究極的には人間の「快」を根拠にした不文律である……みたいなことをニーチェは言っている。つまり、実は僕達が善と思っているものは、本当に善なのかよく分からんんのです。だって、人間の「快」自体に根拠なんて存在しないんだし、そういうものの基準は完全に個人個人に依存しているわけだ。
 だから、善なんて存在しないんだぜ、ということは俺が善だ、ヒャッハーーー! ……ということにはならない。
 悪にも彼岸があるから。
 同じように、悪に根拠が無いし、善にも根拠が無いし。そんな無秩序に僕たちは住んでいるんだ。
 目を瞑っている。しかし、口だけは雄弁に動く。耳は、その雄弁を聞く。そういう人にジョーカーの声は、はっきり鮮明にまざまざと飛び込んでくるものだ。
 そういう「虐殺の文法」に対して僕らはどうするべきなのか。
 いつ沈むとも知れない船の上、息を潜めて沈黙を守り、時計の針を見つめること。
 それがたったひとつの、僕らがジョーカーに対抗できる手段なんだ、と闇の海に浮かぶ二隻のフェリーを見て思いました。なんだか大江健三郎「不意の唖」を思い出すなあ。というか、構造はまるきり同じなのでは。

 良い映画だったなあ。そのうちまた見ます。
 ところで近況ですが、出版業界全滅しました。倍率が変態だからしょうがないです。
 そういうわけで、変わらずに別の方面からのアプローチを続けていきます。今までと何にも変わらず。
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  1. 2015/06/29(月) 22:08:38|
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私が私であるための、その前に

最近気づいたこと:
僕の地の文の一人称が「僕」の方が良いということ。というか、俺という口語的な一人称は非常に僕の文体にマッチしないことが判明した。なので、今後は僕でいこうと思います。小説の方は分かりません。私という一人称はまだ回数を試していないのでまだ分からない。そのうち短編でも書いて試します。

今日は攻殻機動隊の新劇場版を見に行ってきました。
劇場に映画を観に行くとか言うこと自体が超久々で、しかもある意味こういうニッチな映画を観たのはほぼ初めてなので、あの劇場の必要最低限なサイズ感がなんとなく心地よかったり、テレビで観るのとは比べ物にならないほどの映像、音響で時間を気にせず入り込んでいけたり、随所の吹き出した箇所を周りの観客と共有できたり、そういうDVDとかBDで観るのとは明らかに違う臨場感があって良かった。今更ですが。
それで感想をと言いますと、「思ったよりも簡単だった」という。
いや、攻殻なんて予備知識が無かったもので、タチコマくらいしか知らなかったんですが、そりゃイカンとGISとかイノセンスとかいう過去作品を見てみたわけです。攻殻といえば押井、と自分の中で固まっていたので、押井監督の作品だけ。
で、イノセンスなんて難物中の難物じゃないですか。ハードSFの地の文みたいな解説を滔々と語り上げられて、そんでもってあんな破天荒な筋道を辿られては、何が何やら分からない。何だこれは、と絶対に思えるような、理解しがたいというか理解というものを想像しにくい作品だった。とても面白かったけどあと三回は見ないと見たとは言えないんだろう。
で、今回の新劇場版はそれに比べたら遥かに易しかったので、そういう感想が出ました。実は心の底でそういうのを望んでいたので、ちょっと簡単じゃない? って思ってしまったけど、いやいや普通に難しいです。ただでさえ総集編なので、ストーリー展開が異常に速い。TVシリーズを見てないと知らない人が出てくる。人物の関係性が分からない。何で、そういうことになったのか、ぼーっとしてると置いていかれてしまうような作品だった。でも、理解はし易い。ストーリーを追うのは割合無理がなかったし、アクション描写は申し分がない。というか、特務の人たち強すぎ。特にバトーさん。
最後の子どもたちに向けて素子が言う「未来を作れ」というセリフが、いかにも冲方丁だなあ。冲方丁さんの作品って、ある程度のところまで理詰めで書かれるけど、どこかでヒューズが抜けて感情爆発みたいな、一時的に読者を鷲掴みにするような瞬間があるんだけど、そういうカオスからひょいとはみ出て落とされたように最後にセリフがあった。詳しくは語れないが、ある意味そういう選択の末に素子は生き残った訳なので、彼女がそう言うのはまあ、当たり前なのですが、それでも「ずっとこれが言いたかったんだよ私は!」というような趣きに、つい笑いそうになってしまった。一人で見てたら笑ってたかも。

それで、攻殻は友達と観に行ったんですが、その後何故かオフ会めいたものに行くことになりました。
結論から言うと相当に楽しくて飲みまくってしまって、いまとっとと寝たい気持ちを抑えこんでいるところ。隣に座った友達がひとつまみのわさびを食って泣いたり、男が男に延々とセクハラしていたり、隣に来た女の子が世の中には闇ばかりであることを告げてきたり、楽しい会でした。
こういう楽しいことがあって帰ってくると、大抵楽しくないことが待っているものなんですが、なんとパソコンを起動させてもうんともすんとも言わないようになっていました。あらま、と思って見てみたら、モニターのケーブルが抜けていただけでした。挿したらつきました。そして今に至る。
  1. 2015/06/29(月) 00:03:09|
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滅び行く美、高嶺の美

 Fate stay/nightを見ました。今やってる奴じゃなくて、十年近く前にやったやつ。OPをニコニコメドレー的な何か聞いたことがあったなあ、と思い出しまして、尋常じゃないノスタルジアが噴出する。これは懐古。今もあるんですかね、組曲的なもの。
 セイバーは美しいのですかね。美しいから、愛されたのか。偏執されたのか。
 アニメ「ラブライブ」についてネットにあった批評で、2期において「一人でも抜けたらμ's終了である」発言(呪い)の行使によって、じきにユニットを解散するという宿命を控え、海でみんなが泣き叫ぶシーンについて、その風景に「滅びの美学」がある、という記述をみて、笑ってしまったのだけれど、どうあっても美というのは後付の要素に過ぎないものだ。よく分からんが心を打たれた、何か胸に迫るものがある、その原因不明の心情の動的な増幅を、後で言葉によって造形しなおした説明であるに過ぎない。で、あのシーンは結構印象的なシーンであるから、見た人は必ず何らかの形を与えたがるわけで、それについてもっともらしい単語を与えるのは当然のこと、そこに「美」をはめ込むのはまんまと物語に騙されているわけ。アニメ「ラブライブ」は高坂穂乃果の異常な英雄性に支えられた物語に、キャラのディテールが装飾的に挟みこまれているだけで、それを除けば「現代において伊勢物語を作るとこうなる」みたいなアニメだったように思える。「歌」に対する説明としての物語。それ以上の意味があったのかしら。キャラの説明は二次創作の方々が入念にやってくれてますしね。優れた騙しと圧倒的なコンテンツ力。これを流動力のあるエンターテイメントに上手く乗せてしまったことは、非常に評価できるところではある。
 ちなみに、僕はアイドルというものがあまり好きではない。何故ならある程度の物語を彼女たち或いは彼たちの容姿に結びつけているからである。三次だろうと、二次だろうと関係なく、物語性が僕達とアイドルたちに紐付けられていて、そこにおいて、アイドルたちの顔は物語を標榜する記号として扱われる。ももクロのライブに涙を流す理由は分かるし、非常に共感できることであるし、それはそれで大いに結構なのだけれど、それはやっぱり愉楽である。尊敬はしているし、その努力の大きさも知っているけれど、その影響力も知っているけれど、それによってたくさんの人の笑顔を作っていることも事実なのだけど、男たちのアディクトを見せつけられているようでどうも……。
 セイバーの美しさにも、そういう要素が拭えない。女の子なんだから、戦っちゃダメだ、という、士郎のアイドルを見つめる眼差し。手に入らないからこそ、美しいものもある、というアーチャーの散り際の、アイドルを見つめる眼差し。しかしセイバーは、こういった美しいものへの眼差しに抗っていた。私は自分が女であると関係なしに、剣士として戦う。その純粋な心のありようが、女としてあることへの反発が、逆説的に彼女を美しくしてしまう。一層、彼女を女として気高く見せる。
 セイバーは最終的に勝利する。それは聖杯戦争という、恐らく人が夢見る最もシンプルな戦争の形を体現したルールに於いてではなく、セイバーをしてアイドルとして成立させてしまう、士郎の眼差しに勝利するのである。或いは、視聴者の眼差しに。そうして自分の望みを達成する。
 それが、「愛」と名付けられた動機によるものなのかは知らない。
 でもやっぱり、その達成に至る道程のうちに「美」なんていうものは存在しない。仮に存在するんだとしたら、その風景を目撃する眼差しの内に湧いた幻想なんだな。幻想であると分かっていても美しいと思えてしまう、たったそれだけのもの。セイバーを美しいと単に言うだけだったら、別にこの物語と関わる必要は無い。

 そういうわけで、後半が盛り上がるアニメでした。なんというか、それ以外のところはあまり興味がわかなかったな。余裕があったらzeroとか今やってる(もう放映終わるの)もみたい(そっちのほうが好評なので)。
 今週末は、攻殻を見に行きます。レッツゴー池袋。
  1. 2015/06/26(金) 20:10:21|
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巡り巡って回る物語

 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』続、です。最終回でした。見終わりました。リアルタイムに深夜アニメを見るのは超久しぶりで、正直今も眠くてしょうがないのですが、書きたくてしょうがない欲のほうが勝ったので書きます。ネタバレありますが、まあ別にネタがバレても支障のない作品だと思うので、構わずいきます(もちろん嫌な人は読まないほうが良いです)。

 楽に言ってしまうと、ヒネクレボッチボーヤとヒネクレオヒメサマとアッパークラス女子による青春ラブコメってことになるのかな。金欠故に原作は読んでいませんから、あくまでアニメを見て、ということなんですが、ラブコメじゃないですよね、コレ。この作品を嗜んできた皆様方はとっくに了解していると思いますが、奉仕部といういかにもハーレムラブコメおあつらえ向きな架空の部活動に、メインキャラが女の子ばかり(先生も含めれば(?))とあっては、ラブコメになるでしょうと思いきや、実は単なる青春活劇である。ヒネクレボウヤのヒネクレ炸裂、ヒネクレヒメサマのヒネクレ炸裂によって、僕達が抱いてきたラブコメ観のようなものを含めて曖昧になっている領域を喝破していく爽快感、そして後に残るギスギスのリアリティ。一期は完全にそれに終始していたけれど、二期はノッケからそれなのでそこら辺は楽しかったり。君のやり方は嫌いだ、だなんて面と向かって言うかそれ!? と思うけれど、ヒッキーの脳内突っ込みも大概であるし、自分を疎外するクラスタへの分析なんて、立派な陰口である。そういうわけで、ボッチ視点の青春活劇というわけで、ヒネクレ者たちが空気を読まずに元気に舞い込んだ問題を解決していく、妖怪ウォッチ型のストーリーなわけです。でも、ヒネクレ×ヒネクレでは、ただのヒネクレ活劇になってしまうので、間にアッパークラス女子である由比ヶ浜さんが仲介してくれるお陰で、僕たちは割合コメディとしてこの作品を観ることができていた。まあ、そうでなくとも二期6話(だっけ)のような、スーパー意識高い系高校生たちのビジネス用語の百花繚乱は、死ぬほど笑えるコメディだったな、なまじ就活生で意識高い系の言説には悩まされているから。
 二期になってから主題の焦点が定まっていた。「この関係性を変化させたくない」という思いである。あの、正直言って僕はどうして告白したりそれを振ったりしたせいで人間関係が変化してしまうのか、さっぱり分からない。僕はもしかしたら人並みな学校生活を送ってこなかったのかもしれない。か、或いはみんな表面上は見事に取り繕っていたのか。それはそれで悲しい。
 でも、変化させたくないと思いつつ、変化させないように努めることで、君ら変わってるじゃん、って、ずっと見ていて、なんだか不思議な感じだった。最初はカースト頂点と底辺みたいな位置づけだった葉山と比企谷が、12話では何かお互い面と向かってdisりあうほど和解している。これを変化とは言わないのですかねえ。そう考えると恋愛のもたらす変化というのを、もっともっとラディカルなものだと想像してしまっている、高校生的な真剣さ、ひいては子どものようなかわいさというものを感じます。たしかにまあ、恋愛は僕達を変えてしまうかも知れないが、それにしてはおっかなびっくり、そのぎこちなさが良いといえば良いですが、葉山含めてみんな恋に不器用、その様相が全体として青春ラブコメというタイトルに収斂していく。肥大化した恋愛像に対するジリジリとした距離感が、ず~っと続いているような感じだったから、それに疲れた人たちは退屈してそう。微妙だな、という感想とともに。
 でも、僕がずっと気になっていたのは比企谷が生徒会の仕事を引き受けた時点から、ぐるぐるぐるぐると、回っている何かについてです。比企谷と雪ノ下と由比ヶ浜の間にめぐる、なにかの予感。何なんだ、コレ。何なんだ、その間は。何なんだ、その表情は。
 って、本人たちが「これが恋だとしたなら~~♪」ってEDで歌ってますけど笑 それって恋なんじゃないですか笑 という話で、水面下でじっくりと何かが巡っているような、予感めいたものが(何も隠れていませんが)サブリミナル的に挿入されている。
 その動的な水面下の関係で手を取り合ったまま、いわば拮抗状態のまま、一期ラストの文化祭という一番大きな共同体から、クラスの友人関係、生徒会と外部の高校、そして再びクラスへ、最後には奉仕部に戻ってくる。なんだか、どこか大きくぐるっと一周してきたような、旅行を終えて宿に戻ってきたような、謎の安心感を葛西臨海公園の観覧車で迎えるわけですね。いつまでも彼らの関係性は変化をしない、けれどもその表皮の裏側でぐるぐると巡っている。その「回り」が観覧車というモチーフに表れ、そして最後に由比ヶ浜が手渡すクッキーにおいてようやく彼女たちの関係性が「一回転」を遂げる。そして、ようやく一歩前進するわけです。
 おせーーよ!!! と笑いながら突っ込んでしまいましたが、このささやかな前進はラノベ原作ならではだ。ただ、「青春ラブコメはまちがっている」というのだから、やっぱりこれはまちがっているんですね。これはまちがいなのかもしれない。でも、自分で選んだことだから。呼応に呼応を重ねて、ニ期は終わる。ああいう終わり方、いいですね。ラブコメでそういう終わらせ方があるんだなあ。小さく、小さくまとめましたね。なんだか回転するコマみたいなアニメでした。

 そういうわけで久しぶりに深夜アニメリアルタイム完走、ということで。製作陣は打ち上げやってたんだろうなあ、とか考えてる。
 単純に続きが気になります、が。きっと原作は買わないだろうな。他に買わなくちゃいけない本がたくさんあって……。
  1. 2015/06/26(金) 03:22:16|
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竜の眼差し(後編)

http://ncode.syosetu.com/n9282cs/)でも同内容を掲載。

 そういうわけで、俺はホーコとフタマさんと共に生まれ育った街エルージャを出ることになった。
 俺達はすぐに出る準備ができたが、割とこの街の行政に入り込んでいたフタマさんは、その引き継ぎやらがあるということで、一週間ほど待たされた。その間にすることと言ったら、ホーコが勝手に借りてきて延滞しまくっていた図書館の本の返却、……はまあ、いいとして、地元の冒険仲間(卒業してからはただの友達だが)に別れを告げることだった。連中はある程度手に職をつけて、家族ごっこみたいな家庭すら持っている奴も居たが、誰一人としてハンターなる職の存在は知らなかった。だから、俺がハンターになる、と言ったところで目を点にして、
「漫画の読み過ぎか?」
 と、訊いたものだった。それからさっさとハンターなる漫画じみた職には興味を失って、ホーコについて根掘り葉掘り訊いてくる。こういう奴らには、「親が秘宝と称して準備した許嫁」とか適当なことを説明しておいたが、桃色髪のミステリアスな(少なくとも外聞では)少女は、興味の的となるに決まっている。
 旅立ちの前日、飲みから帰った俺を出迎えたホーコは、今までずっと着ていた服を脱いで、バスローブなんぞを着てブランデーなんぞを飲んでいた。別段色っぽくも艶っぽくもないが、初めてそんな洋風かぶれな姿を見たので、俺は呆気にとられた。
「リアルだな」
「文明開化ってやつさ」
 ホーコはおどけたように言ったが、呂律が回っていないので却って真面目に見えた。
[竜の眼差し(後編)]の続きを読む
  1. 2015/06/25(木) 21:06:25|
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竜の眼差し(前編)

また短編を書きました。50枚を想定してたけど、出来上がったら100枚になりました。あたかも錬金術。
小説家になろうさん(http://ncode.syosetu.com/n9282cs/)にも掲載していますが、こちらにも載せるので、読んでくれる方はお好みの場所で。感想もお好みで。



 昔々あるところに、ひとりの青年がいた。俺である。
 昔々、と言っても別に今が特に昔なわけではないが、物語は基本的に過去形で語られるわけだから、確実に過去のものなわけで、昔というのも、「時間的にさかのぼった過去の一時期・一時点。時間の隔たりの多少は問わずに用いるが、多く、遠い過去をいう」と辞書では言っているので、昨日の出来事でも、一分前の出来事でも昔々である。
 俺はエルージャと呼ばれる一つの都市に育った。
 この世界が唐突にファンタジーと拮抗を始め、リアルとファンタジーという両陣営の狭間で生きることを余儀なくされてから半世紀、エルージャは比較的新興の都市であるから、伝統というものがない。伝統というのはファンタジーであるから、リアル陣営が勝っている何よりの証拠だ。ただ、別にどちらが勝てば良い、という価値判断を人間は持ち合わせていなくて、リアルが勝とうがファンタジーが勝とうが、大きな違いが出ることもないので、大して興味はない。
 そう思っていたわけだから、俺の一族にのみ伝わる秘宝というものがあると聞いた時は驚いた。そんなものはまるきりファンタジーであって、いわばファンタジーのゲリラであった。ゲリラファンタジーだった。その時、俺は15歳で、青年というよりは少年だった。
「なんだよ秘宝って! 聞いてないぞ!」
「いや……俺も最近知ったんだよな」
 親父はそう言って頭を掻く。「うちには代々受け継がれる秘宝があるってことになっているらしい」
「趨勢がファンタジーに傾いてるって本当なのかしらね」
 母親はもう若くもない顔を鏡に突き合わせ、化粧を施しながら言った。つまりまあ、ファンタジーのほうが優勢になってきてるということだ。
 親父も親父でこの件については本当にわからないようで、困ったように身体を揺らしながら、
「一応、お前が18歳になった時に引き継ぐ段取りになってるから……まあ、その時までに身体でも鍛えておけ」
「何それ、重いの」
「重いかも知れない。人と同じくらいの重さだと思うが」
 そりゃ大変だ、ということで、俺は高校に通って冒険部に入部して、それまでぬるま湯に使ってきた身体を鍛え直すことにした。
[竜の眼差し(前編)]の続きを読む
  1. 2015/06/24(水) 19:41:11|
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戻る必要のないあの日々



久々ですが、今回はアレンジです。
公式見解では、俺の全ての創作意欲のそもそもの切欠を与えたのはこの「激突!グルメレース」であるということになっています。

俺がゲームに初めて触れたのは幼稚園の時で、SFCのマリオカート。その次は覚えていない。スーパードンキーコングとかかな。
で、星のカービィSDXというゲームを買ってもらった経緯は皆無であって、親がいきなり買ってきたんですなあ。当時は外箱をすぐにかなぐり捨てるような子どもだったので、パッケージをもう少し後に見た時は、別のゲームかと思いました。
幼稚園生だった俺は洞窟大作戦で断念。すり抜け床を発見できずに詰んでいた。それを再プレイしてやったのが小学校に上がってから。友達とひたすら遊んでいたような気がする。二人で協力プレイできるとかいうのは、誰もがびっくりの新仕様だったから。
BGMを音楽として、意識して聞き始めたのがこのくらいの頃合いで、グリーングリーンズとグルメレース、そしてEDが好きでそのためにやっていた。そういえばメタナイトの逆襲って、夢の泉でボコされた逆襲ってことなのね。いきなり逆襲し始めるとかなんて物騒な奴なんだ、とか思っていた。

ゴタゴタしたけど、要はこれからも小学数年間かけてゲームを結構な数プレイするわけですが、まず耳にする音楽というファクターはグラフィック以上に俺の心に深く染み付いた。そういうわけで、音楽について興味が湧いて、今のキャリアを形成するに至る、というわけである。ゲームをやっていなかったらどうなっていたのか、本当に想像不能。というか、ゲームのない家庭が存在することを知らなかった。どうやって日々過ごしてるんだろう、と真面目に不思議に思っていたくらいで。
そういうわけなので、ぶっちゃけ俺のルーツはグリーングリーンズ、グルメレース、エンディングのどれかというわけなんだけど、そんなのはどれでも構わない。第一、ルーツなんて考えてる暇があったら、新しい自分の文章を書くか、新しいコンテンツを開拓しろ、という話であるのだけど、まあ一応、多少なりとも思い入れのある「グルメレース」のアレンジだし、ってことで。

それにしても動画が伸びない。
UTAU(というかVOCALOID)を応援する人たちのスゴさは、見習う必要があります。スゴイですホント。
  1. 2015/06/24(水) 01:27:08|
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ひとりに佇む薄暮

昨日の夜、「即興小説トレーニング」(http://sokkyo-shosetsu.com/)で書いたものです。
制限時間は60分。お題は「穏やかな絵画 」。



 そのジジイは孤独だった。
 俺も孤独だったので、すぐさまシンパシーを覚えた。俺が中学二年生の頃だ。まあ、いわば厨二病だったわけで、それでも俺の孤独は一級品だった。なにせ、友達はおらず、グループにも所属せず、家族とはおざなりな挨拶だけしかかわさない人間だったからだ。そして、そういうオタク人間にありがちな、ネットでのコミュニティにも所属していない。大地震とかが来て、俺だけが瓦礫に閉じ込められても、きっと俺は助けを呼べない。だから、そういう時はひっそりと死んでいくんだ、とか思っていた。
 そういう病を抱え込んでいた俺に、そのジジイが会いに来た。もちろん、あのジジイにそんな意思は無かっただろうし、俺も素直に会ってやる気持ちなんて無かった。
 土曜日の午前中、両親不在のうちの庭に、そのジジイが唐突にのそのそと入り込んできたのだ。それから、脇に抱えていたカンバスを置き、その正面に木製の折りたたみ椅子を開き、恐る恐るという風に座り込むと、画材を取り出して絵を書き始めた。
 あのじいさん、頭がおかしい。俺はすぐにそう判断した。けれども、何もしなかった。俺は孤立無援の一匹狼であって、噛み付いた相手が猛獣であったらひとたまりもないクソザコ狼である。喧嘩にふさわしい体力とか地位があったら、すぐさま噛み付きに行っただろうが、俺は精神的にもぼっちだったから、部屋にたてこもってそのジジイを観察していた。
 俺は絵を描くことに知識がなかったから、そのジジイの手つきがすごいのかヘタなのかよく分からなかった。ただ、一点の迷いなく、点線をなぞるように描いていく流暢な手つきはやけに目に残った。そのジジイはうちの庭にない風景をカンバスに描きつけていた。真っ暗な夜の町並みを、遠くの高台から眺めているような構図で、上には流れ星のように幾多もの黄色い線が引かれていた。俺は小学生の時に買ってもらった双眼鏡から目を離して、その絵の難解さに首を傾げた。
 そのジジイはうちの親が居ない日に、毎回来た。きっと、大人二人でこの家に住んでいると、あのジジイは思っているに違いない。俺はじっと、双眼鏡越しにジジイの絵を眺めていた。ジジイはたまに物思いに耽るように、ぼーっと遠方を眺めて、それから不意にスイッチが入ったように筆を動かし始める。夜の町並みがカンバスに出現する。夜空には赤い線が引かれる。或いは青い線が引かれる。それか、黄色い線が引かれる。だいたいその3色のローテーション。
 あまりにも親の不在を周到に狙って現れるものだから、俺は必然的にジジイに漂う孤独を嗅ぎとった。あれは、ひとりぼっちなのだ。俺とおんなじように。
 だから、俺もその孤独を模倣し始めた。絵を描き始めたのだ。夜の町並み、そして上空に迸る黄色い線。何なんだろう、これは。よくわからないが、描く。こうすることで、俺は更に孤独の深みに入り込んでいけるような気がした。孤独に耽って、それからどうしようなどとは考えていない。俺は厨二病だったから、孤独の味を知ってみたかったのだ。それからというもの、俺とジジイのコミュニケーションは一方的に、カンバスを通して行われた。
 中学三年生になった。俺の模写は相当上手くなっていて、ほとんどあのジジイの筆致に劣るところは無かったと思う。というか、あのジジイは絵心の欠片もなかったものだから、中坊である俺にも用意にトレースができたんだろう。
 俺はこの絵画の持つ意味を読み取ろうとしていた。他人の家の庭を訪れて、一日一枚、同じような絵を書いていくのだから、それなりに意味があるに決まっている。暗い町並みの上空に光る、赤、青、黄の筋。ジジイの、この光の筋の書き方は綿密で、毎回淀みがない。まるで、そうと決まっているものを当たり前のように出力しているような。
 フラッシュバック、という単語を知ったその日、俺は遂に合点がいった。
 あのジジイは、空襲に遭ったことがあるんじゃないかと。あの光の筋は曳光弾だったり、焼夷弾だったり、或いは原子爆弾だったりするんじゃないかと。そのトラウマが網膜に張り付いて離れず、その光景を、ひたすらカンバスにぶちまけているんじゃないか、と。
 俺は模倣を続ける。暗い町並みに、死の臭いが漂い始める。空には、無数の爆撃機が、無数の投擲された火薬が、ぷかぷかと浮かんでいる。爆弾は、永遠に街へ落ちることがない。そこに住む人々を、睥睨し、監視し続ける。
 次に俺が思い至ったのは、どうしてうちの庭でそんな風景を再生するんだろうか、という問題。
 うちの家の歴史など知らないから、ここら辺が空襲で焼けたことがあるかなんて、知らなかった。俺は図書館に行ってこの土地の歴史を調べてみたが、空襲にあったような記述はなかった。それとなく親に訊いたが、土地自体に問題があるわけでも無い。そこで俺は学校から帰って、家に入る前にいつもジジイが居座る場所に立ってみた。なんてことはなく、塀越しに近所の風景が見えるだけだった。
 ジジイがまた庭に来た。今日こそ、今すぐ庭へ出て行って、どうしてうちの庭なのか、訊いてみようじゃないか、と思ったが、どうしても足が動かなかった。ただ手だけが動き、今日も同じ絵を模写し続ける。
 ……親に進路のことを訊かれて適当な公立高校の名前を挙げた頃から、そのジジイは庭に来なくなった。大体、月に二回程度で来ていたに過ぎないから、その間隔が広まっただけかと思っていたが、俺が高校に合格するまでついぞ、そのジジイは現れなかったから、その後もうちの庭を訪れることはなかったんだろう。
 俺は俗に言う高校デビューを果たした。勇気を出したらクラスでは友達ができ、美術部に入ることによって活動すべきグループが生まれた。そこで1から絵の書き方を学んで、あのジジイが相当ハチャメチャな筆致をしていたことを思い知る。街を描くことと、流線を綺麗に描けることが取り柄の普通の美術部員として、二年間を過ごした。
 野心が働いて、三年目の最後のコンクールに出店する作品を、例のジジイが描いていた絵画にしてみた。俺は中学時代の絵を引っ張りだして、それを今の俺の技術を以ってして、カンバスに模写してみせた。まあ、それはパクリなのであって、あのジジイがあの暗い街並みの絵をどこかに出品していたのなら問題になるだろうが、そのことによってジジイと会うことができるのなら、それはそれでいい気がしたから。
 出来上がった暗い街並みと、黄色の筋は、どこか穏やかだった。なんというか、ここに帰ってくるために、俺は高校生活を送っていたんじゃないかと思える、ふるさとのような絵画が出来上がった。
「コンクールに出すやつ、出来上がったぞ」
 そう言って、俺は部員たちにその絵画を見せた。すると、誰もがビクリと身を震わせてこの絵を眺めた後、恐る恐る俺の方を見て、言うのだ。
「なんだよ、コレ……」
「なにコレ……」
「なんですか、コレ……」
「何をモチーフにするかは個人の自由だが」
 顧問は困った顔で俺の絵を見て、「何なんだ、これは一体」
 困惑の嵐をくぐり抜けた俺は、うちへ帰る道すがら、あのジジイのことを思い出していた。あのジジイは、確かに孤独だった。だから、孤独だった俺はあのジジイを身近に感じることが出来たんだ。シンパシーを抱くことができたんだ。
 でもそれは思い違いだった。中学生の時の俺は、孤独なんかじゃなかった。だって、ジジイと一緒に居たじゃないか。ずっと一緒に絵を描いてきた。でも、今の俺は違う。ジジイを失って、本当に孤独になっちまった。あの絵が本当に俺のルーツだとしても、あれを見たところで誰も共感なんかしてくれない。誰も、俺の描いた絵を見ようとはしてくれない……。
 唐突に、孤独の冷たさを喉元に突きつけられたようで、寒気がした。
 学校を出る頃は薄暮だった空も、今では暗い色に沈んでいる。近所の町並みも、等しく闇に溶けている。その上空に飛び散る星の群れ。そこを、赤い光を放つ飛行機が通り過ぎて行く。遠くに一筋、光線が宇宙へと伸びていく。
 そんな、本物の孤独の前に俺は立ち竦んでしまった。
  1. 2015/06/21(日) 12:14:18|
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死にたくなるということ

 随分前に、あれは確か4月のことだったな、高校の部活の同期と飲む機会があった。ちなみに横道に逸れるけど、高校の時の自分は大分悩んでいて、大分真剣に考えていたんだよなあ。バカだったけど。バカだったことに気付かず、バカなりに頑張っていたことはある程度青春っぽくはあるけど、というかまあ、自分の可能性にある程度気づけたという点では、大学1,2年の自分のアホ具合の方がツッコまれるべき……いや、2年の自分はそこそこ頑張っていたので、やっぱり大学1年のアホっぷりを成敗したい。人間、学歴じゃ、ありません、ホンマに。
 あ、で、高校の部活の同期と飲む機会があった、という話。思ったより盛り上がったので、二次会でカラオケ屋にもつれ込む。俺は金がないので帰りたかったけど、いいよいいよ出すよ、と既に社会人のおねーさまがいうので、遠慮なく甘える。大学入って三年間で、人におごってもらうスキルが異常に高くなった。まあ、軽蔑されるべきスキルではある。
 で、俺は音ゲーを始めて以来カラオケが好きでなくなったので、歌うつもりは無かったけど、まあ、ある程度歌った。テンション高いからね。酔ってたから、あんま覚えてないけど(そういうことにしておく)。
 で、某氏と某氏が失恋ソングを歌ってくれたのだった。タイトルは忘れた。歌詞で何言ってるのかも忘れた。でも、独り身であるところの歌い手達は、ううんつれえ死にてえ、と言いながら歌っていたのだった。それだけは覚えている。そういう曲をいくつか歌ったような気がする。
 で、えげつねータイミングでフラれて(今後は夏が嫌いになるかもな)それ以来独り身俺はというと、何も感じなかった。というか、この程度の歌詞で死にたくなるのか、と正直なところ思っちゃった節もある。バカにしてるつもりは無いけど。

 奥華子の『ガーネット』。この人は自分という楽器がどんな音を鳴らすのか非常に分かって、それをとんでもなくあざとく使うから、こういう曲が死にたいソングの筆頭としてよく挙げられる。ああ、切ないソング、っていうやつかな。切ないし、いい曲です。
 この曲が『時をかける少女』のED曲とは知らず、この前見てへえーっと思いました。『おおかみこどもの雪と雨』から細田監督にハマり、『サマーウォーズ』を見てからの『時かけ』(筒井康隆曰く「一番稼いでくれる親孝行娘」)。
 メインの男子高校生たち、あんなガラ悪いのにイイやつとはどういうことなんだろう。そしてまことの女子高生っぽさ、リアリティ。こういう子、いるいるわかる。そして、イライラするのである、観ていて。余談なのだが、最近映像作品を観ていると、イライラするようになった。俺自身びっくりな現象で、それだけキャラと寄り添ってしまうのである。キャラを血肉化して身近な存在として見てしまうようになった、だからイライラする。だから、このイライラはとても心地よいものなんだ。普通映像作品は観ていてイライラしないからね。たぶん。まあ、主人公まことに、とてもイライラしながら見ていた。あのシーンとか、あのシーンとか。いい子なんだよね。
 100人中100人がさわやかな映画と答えるであろう、俺もこれはさわやかだと思った。
 しかし、サークルの子たちが「死にたくなる」みたいな旨のことを言っていて、それはどうだろう、と思ったわけで、今回の記事が書かれたわけである。恋の話なんだろうか、これは。うん、まあ恋の話なんだろうけど。結ばれない恋の話で、結ばれないが心が通っているが故に、ある意味プラトニックな恋として昇華して、壮絶な甘酸っぱさを提供してくれている。うん、まあそうでしょう。遠距離恋愛なんですからね。
 ただこの種の妙齢の男女のイイ関係に「死にたい」という感想を抱くのはどうなんだろう。無論、そんなものは個人の自由なのでどうでもよいですが、俺は何かを鑑賞して死にたいと思ったことはない。むしろ、生きたい、と思う。あれ、なんか不意に真面目な話題になってしまったけれども大丈夫か?
 「秒速5センチメートル」という映画は、人を死にたくさせるアニメ映画堂々トップでガツーンですね。俺は何も思わなかったんだけど。いや、何も思わないなんてあるわけ無いな。ただ、セカイ系が俺の好みでないことはハッキリと分かってしまった作品ではある。俺にとって、第三話でああいう風になるのは、どこか当然過ぎる帰結であるような気がしたし、監督自身が言っているように、徹底した「距離」の表現にもっと心を奪われるべきだと思うんだ。人の距離、心の距離、時間という距離。ラストシーン、踏切で誰かとすれ違う、渡りきって思わず振り返る、電車が通り過ぎる、残されたぽっかりとした空間、無限に続いていくその距離……そして、また自分も歩き始める、その距離。それ故に俺はこの作品をさわやかだと思ったのだが(そして、山下達郎は天才だと思った)、でもやっぱり皆「鬱」になるんだって。何でだろう。不思議なんだ。ちゃっちいテレビで見たからだろうか。でも「おおかみこども」も「サマーウォーズ」も時間を忘れて見入ったから、あんまり関係ないのかなあ(もっとでかいスクリーンで見れるならそれに越したことはないに決まってる)。
 こういう青春系の映画を見て俺は死にたいとは思わない。それは俺に恋人がいるからかな、とか思ってたけど、別にそんなわけでもなかった。フラれてもものを見る姿勢はなんも変わらなかった。

 思うにですね、青春はナマモノで、年を経ると死んじまうものなんだと、みんな考えているんじゃないかと思う。
 これが真っ赤なウソであることは、坂口安吾大先生が「青春論」で言っておられる。青春は死にません。谷川俊太郎という大詩人は、いくつになっても若々しい詩を書くことが出来るし、日原正彦はオッサンになったというのに合唱界隈では有名な「恋唄・空」というヒジョーに気持ち悪い詩を書いているし、林芙美子などは不逞に不逞を重ねた実生活を重ねている。太宰治はついに心中してしまった。そもそも不倫とか浮気はどこか大人なアトモスフィアを感じさせるけど、これはまるきり青春の問題ではありませんかねえ、と思うんだ。
 けれども、青春はジュブナイルの特権であると思い込んでいると、二十に至った大学生、或いは自分に望みが絶たれてしまったんだと思い込んでいる高校生は、他人の、或いは空想の圧倒的な青春ストーリーの前にひれ伏してしまうのかも知れない。そして、自らをオッサンオバサンと嘆いて、中高生のエネルギッシュな風情から相対的に青春を自ら剥奪してしまうのだ。
 かといって、青春がいつまでも続いていくものと信じてい俺が勝ち組かというと、全然そんなことはない。というか、さっさと青春なんて諦めて、実社会で今後数十年どう生きていくかを考えるほうが、遥かに有益なのであるし楽なんである。だから、俺はそういう人たちを否定することは絶対にしない。ただ、俺はできないだけなのである。馬鹿でかい青春を飼いならしてしまっているために、逆に操られてしまっている。だから俺は老いたとはさっぱり思っていない。いま、古井由吉さんと大江健三郎さんの対談集を読んでいるのだけど、彼らもまた青春のまっただ中に生きているふうにしか見えない。っていうか、自分で晩年に至ってることを分かってるのに、新しく外国語勉強し始めたり、これからの小説のことを語ってたり、まだまだ生きる気満々じゃないですか。「あと5年間時間が残されているとして、どうやって読書していこうか考える」と仰られている日付が2010年って、まだご存命ではないですか……。
 というわけで、「人生の最盛期は誰でも等しくジュブナイルである」という考え方はあんまりしないほうがいいんじゃないか、という提案です。というのも、俺はあんまりそういう観念に乗っかって「鬱」をもたらすような共感を強いるスタイルが好きではないからです。「時かけ」は胸を打つけれども、どうして胸を打つのか? それは青春だからだよ! 違うやい。それは思考停止だやい。伊藤計劃はこの映画にある不穏さのことをしきりに言っている。俺はずっとイライラしながらみていた。ずっと、ずっと、不安さがつきまとっているんだ、この映画は。「未来で待ってる」そして、この力強さに、持ち上げられる。だから、生きよう、って思う。
 まあ、それで憂鬱さに浸る自分に浸るのも良いけれども、それで自分の青春を殺すのはどうか勘弁を。自己嫌悪なのかと思いきや、遠回しにそれはナルシシズムなんですね。
  1. 2015/06/20(土) 23:52:31|
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情報を越えたひとつの記録として

 ハヤカワ書房『伊藤計劃記録Ⅰ・Ⅱ』を読んだ。ウェブに載せられた文章をまとめたもの(この文量で映画・SFに関わる一部らしい)なので編集の手が最低限しかかかっていないはずなのに、このクオリティはおかしいと思った。無論、記事の選別はあったろうけれども、4年間でふつうの文庫本二冊分の良質記事があることを考えると、7年かけてやっとここまで辿り着いた自分にとっては雲の上のような存在である。っていうか、もう七年かよ。来月で2008年から始めた当ブログは8年目を迎えます。5年目よりもアニバーサリー感が強いな、七年間て。子どもリンクが大人リンクになるのと同じだけの距離を歩いてきたけど、果たして時の勇者みたいな成長を遂げられたのやら。
 しかし、当の伊藤計劃は98年からWebで文章を書いているらしいので、亡くなる2009年までのおおよそ10年間はWebで物書きをやっていらしい。2006年には処女作とは思えない傑作『虐殺器官』を書き上げているけど、これは彼が文章を書き始めた8年目にあたる。つまり、僕も今年何かを書き上げられるだけのキャリアはある……んだけど、それがSF系の賞を総なめするだけの破壊力を持っているか、んなわけあるかーい。
 で、彼が作家デビューをしてすぐに小島監督直々にMGS4ノベライズの依頼があって、10日間で400枚を書くとかいう怪物ペースで『メタルギアソリッド ガンズオブザパトリオット』を上梓。抗癌治療で入院中、ヒマだったとはいえ、このペースはやっぱりおかしい。僕も一週間で250枚を書いたことがあるけど、頭がおかしくなるかと思った。それが憧れていた作品のノベライズとか考えると、やっぱりバケモノと言う他ない。彼の遺伝子から、最強のSF作家を生み出してもそのコストと見合いそうだ。
 その後に、苦労して『ハーモニー』を書いたらしい。これもまあほとんど病院で。病院という空間は、僕も祖父母の見舞いとかでよく行ったことがあるけど、日常的な非日常がその空気に溢れている。つまりまあ、別世界だというわけだ。ご飯を待って机に並んでいる老人たち、点滴のアレ(幸い健康な体を持って生まれてしまった身なので、医療機器の名称を全然知らない)をコロコロ転がして移動する人、看護師の異常なまでに清潔な出で立ち、そしてなんというか、患者のメンタルを和らげるために最大限の意匠を凝らした病院の内装は、何としてでも死の気配を追いだそうとしているが故に、死の気配を却って濃厚にしている。その中で、核戦争による終末の去った時代を書くというのは、、どういう気持なのか。自ら必死で生きている身であるのに、その中で自殺しようとする少女たちを描いた時、何を思っていたのだろうか。まぁ、そこまでいくと『想像ラジオ』的なアイデアであって、僕には今のところそれだけの勇気もないし、それをここでわざわざ文章化するまでも無いから、その先まで踏み込まないけど。
 で、『伊藤計劃記録』を読み通して思ったのは、僕は『ハーモニー』は書かれるべきではなかったんじゃないかということだった。いや、本当に間違いなく傑作で、アメリカではフィリップKディック賞とかいうバケモノみたいな賞を受賞しているし、この作品のラストは全SF作家に文字通りの震撼を与えたわけで、神林長平は三年後になってようやくこの作品に作品で呼応するという動揺ぶり(あの『批評』はホントに動揺にしか見えなかったんだよな)。
 それでも書かれるべきじゃなかったと思うのは、この作品の設定自体が彼自身の入院生活に根ざしているからだ。フーコーがあまりにも有名すぎて引用するのも野暮な例の著述で言ったように、病院っていうのは刑務所、学校に並べられる「権威」の機構であって、そこで人は自律的に他律的になるよう調教される。病院のような極度の親切を無条件に与えられる場(『死』を回避する機関なのだから当然なんだけど)に否応なく縛られていた身の上から、極端な「福祉社会」というアイデアが発したらしい。もともと核戦争の話が書きたかったらしく、しかし結果的に核戦争の後の話になったというが、僕は彼が病魔に蝕まれていなければ核戦争の話が書けたのではないかと思えてならない。文庫版『屍者の帝国』で円城塔さんが言っている風に、伊藤計劃はどこか病気ありきで語られる節があるけど、それは彼の作家としての才能と全く関係がないものだと思う。病気でなければ、もっと良い作品が書けた。『ハーモニー』は踏み台みたいな作品だったんだ。当たり前の話なんだけどさ、どこか彼に関する批評を読んでいても、「伊藤計劃は死を運命づけられた作家だった」みたいな見方が多い。それはそうで『虐殺器官』が書かれたのも、彼が自分の寿命を指折り数えた結果ではある。でもやっぱりそれは結果論なんだ。本来は『ハーモニー』なんて書かれずに、アメコミみたいなヒーロー物を書いてくれれば良かった。でも、これは感傷だなあ、やっぱり。僕は彼の作品の批評をしたくてたまらないんだけど、きっと半年かけてもムリだろうと思う。「そんなこと言われたら何も言えなくなっちゃうじゃん」ということを彼は言ってしまっている。それを剥ぎ取る覚悟が、半年でつくとは思えない。

 で、『伊藤計劃記録』を読んだ時、先の記事で言ったけれど、彼の怒りというものがなんとも新鮮だった。先日、記事で言及した時はまだそんなに読み進めていなかったから、滲み出る怒りについての言及だったけど、もっと露骨な怒りがあった。解説で塩澤さんも指摘していたので、みんなびっくりするところなんだな、と。
 というのも、ネットに転がる映画評についてのエントリー。題して「誰も信じるな」。
 要するに、「このワードを使って映画評をしている奴は、もれなくバカ」という、僕の大好きなことを言っている記事なのですね。一部抜粋する。

・ストーリーが読めてしまうからよくない。
・エンタメとしてすばらしい。
・芸術としてすばらしい。
・人物描写が深くて良い/浅くてダメ。
・テーマが深くて良い/浅くてダメ。
・登場人物に感情移入できないのでよくない。

 伊藤計劃曰く、こういう観点で論じる奴はもれなくバカである、と。映画評を読んで、これらのワード(もっと挙げてるけど)が出てきたら、すぐにブラウザを閉じなさい、と。僕が言ったんじゃなくて、伊藤さんが言ったのよ。皆さんも気をつけましょうね。映画に限らず、あらゆるジャンルの作品について、こういうことを言っちゃう人がいるので。
 で、更に絞って「深い/浅い」、そして「薄い」を要注意ワードにあげている。これらは、「責任とか自分とかいったものからものすごく遠い単語です」。それと、「感情移入」。これについては「最悪バカワード」と言ってて笑ってしまった。何故か、映画という機能上、観客に登場人物に感情移入をさせる必要が全くないから、と言っている。僕にとっては、映画に限らず物語作品においては当たり前オブ当たり前のことなんですけど、どうもそうではない人がいるらしい。そういう人が恋愛面で、「あの子が何を考えているのかわからない……」って思い悩むんじゃないかと邪推する。で、その後フォローとして、俺はこのキャラが好きなんだうおおおお!という熱い思いがあることはあるが、本当にそのキャラに情熱を抱いているのであれば、こんなワードは使わない、と一蹴している。本当に、一蹴。惚れ惚れしてしまった。ちなみにこれは僕の作品について「感情移入できない」と言われたから、その反撃として掲げているわけじゃないです。たぶん。
 まあ、こういうエントリーをすると必ず現れるタイプの弁士がいる。

 「ブログは何を書いても、別に個人の自由」

 アレか、小学校からはじめにゃいかんか。いや、僕が書いたんじゃなくて、伊藤さんが今みたいに書いたのよ。
 ネットを見ていると、こういう主張にはいくらでもブチ当たる。というか、まあ実際ネットという空間はそうなのである。というか、ネットに限らず現実という空間はそうなんである。というか、人間である以上そうだわあ。公共の福祉とかいうこともあるけれど、これは実際学校とか法律とかいう権威によって(或いは共同体的想像力によって)我々に刷り込まれたものに過ぎないのだから、まあやろうと思えばなんだってやっていいんだよ。おう、ガードレールにプリクラ貼るのでも、夜中にバイクでパラリラするのだって構わんよ。
 でも、こういう手合に、伊藤計劃はブチ切れている。本当に怒っている、この人。
 「「個人の自由だと思います」とか抜かしてる間は何も変わりゃしねえ。いい言葉だな「個人の自由」って。たいそうなこった。くたばれ」
 サイコーだ。僕の好きなタイプの文士なんだけど、なるべく身近に居てほしくないな。というか、こんな日本語圏最大のSF作家がうろついている空間で、文章書きたくない。あの人に見られるんだ……って、こういうブログを書くのにもビクビクするなんて。いや、俺はそれでも書くけど。小島監督も、伊藤計劃を意識してゲーム作りしているらしいし、MGSⅤのPVを見た後輩が「虐殺器官ぽい」と言ってたから、もはやプロジェクト・イトーの名は呪いである。ビックボスである。(僕はMGSファンを自称するくせにその辺のフットワークが重いのでまだPVすら観ていない。買うけど)
 で、彼はこの主張をぶちのめして何を言ったか。

「おれは世界を変える気で書いてるんだよ、大袈裟に言えば。いや大袈裟じゃないか、ホントの話だからな。スルーされない何人かに届いて、その人間が面白い文章をはてなで書こうとしてくれりゃおれにとっては大勝利なんだ。おれは明日死ぬかもしれないし、そういう「個人の自由ですから」なんておためごかしに付き合っているほど暇じゃねーんだ。もっともっとおれにとって面白くて興味のある文章が読みたくてたまらないんだよ。「個人の自由」んな前提以前の文言をわざわざはてブに書き込むなっつーの」

 これを、癌と闘病している者が言うのは、本当にズルい。あざとい。故に、僕の嫌いな、そして恐らく計劃自身嫌っているであろう物語に収斂しかねない、しかし真っ当な怒りである。
 彼は「ダークナイト」という映画を、恍惚とも言えるレベルで愛好している。バットマン。これについて、前述の塩澤さんは「伊藤さんの命に間に合ってよかった」と言っている。この映画の公開は2008年。彼の死は2009年だから、本当にギリギリだ。間に合ってなかったらどうなっていたのか、恐らく『ハーモニー』は無かったんじゃないかな。ギリギリ過ぎる。
 伊藤計劃は、自身が書くことによって、こういう作品が増えることを期待していたのだ。それが「世界を変える」ことだと言って憚らない。世界を変える、なんて言ってしまうと、「厨二病くさいしインチキ臭くて胡散臭い~」なんて思う人がいるだろうが、そういう人は一生調教されて無難に一生を終えて死んでいけばいい。彼はそんなことを微塵にも考えていなかった。だって現に「ダークナイト」というテキストは伊藤計劃の世界を変え、そして彼は『ハーモニー』というテキストを書き、そして、『ハーモニー』は僕らの世界を変えたじゃないか! 世界が変わっていないとか思ってる人は、さっさと『ハーモニー』を読みなさい。感情移入を嫌った伊藤計劃が、究極の技法で表現した登場人物たちの感情を目の当たりにするがいい、そしてその感情の表現を要請した「世界」の有り様を目撃するがいい! ほら、感情移入しやがれ! そして、彼の残した、あまりにも巨大に、むごたらしく立ちふさがる、しかし避けては通れない、絶対に目を背けることのできない、その『問い』に直面するがいい!
 彼が告げているのはそういうことなんだ。とことん。最後の最後まで。

 『ハーモニー』を書き上げた彼が、インタビューに答えて曰く、
「今回はここまで」
 なんだよ学校の授業かよ。それだけ言って、そのままどこかへ消えやがって、あのオッサン。
 ちなみに、僕は伊藤計劃を在命中に知らなかった。というか、知ったのは去年のことである。丁度一年前だね。「The Indifference Engine」について言及した記事が2014年6月か7月にある。どうしてそれまでの間知らなかったのか、本当に謎でしょうがない。僕が知ったのは、本当にすべてが終わった後だった。僕は目撃者にすらなれなかったのだ。ただ、伝え聞いた話から、伊藤計劃という物語を再生しただけに過ぎない。
 それなのに、考えざるをえない。彼の死が2009年で、僕のブログが始まったのが2008年。
 まるで世代交代である。いや、まっっっったく彼の存在など知らないで始めたわけだし、そんなところで俺が後継者だ、だなんて豪語するつもりは一切ない、毛頭ない、そんなの恐れ多くて不可能なワザである。
 でも、今、それに気づいてしまった以上は、俺も世界を変えたい。
 よく分からんけど、あの『ハーモニー』とかいうやつをぶちのめせばいいんだろ? 
 よく分からんけど、あの『屍者の帝国』を滅ぼせばいいんだろ?
 そういうことだ。
 ありがとうございました。
  1. 2015/06/19(金) 19:28:29|
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アンチ・レゾナントに華はあるの?



 beatmaniaIIDX22PENDUALのイベント「Qpronicle Code」ボス曲、共鳴遊戯の華。
 初めてこの曲を筐体で聞いた時、とんでもない曲が来たもんだと思った。ゲーム音楽と、クラブミュージック要素と、歌唱要素、それとなんだかよくわからんこのオリエンタルな雰囲気を、全て全てごっちゃにしてしまった、よくわからん曲。これは到底、一回聞いただけじゃなにもわからないな、と確信。こんなアホみたいな曲をぶち込んでくるなんて、ずいぶんチャレンジングだLED!と一発聞いただけで作曲者が分かった俺は思ったものだった。
しかし、ニコニコに上がったこの曲の評価は惨憺たるものだ。エンターテイメントの悪いところは、マスを相手にしていることであって、一度熱狂に入った群集は果てしなく暴走していくという点にある。ボコボコのボッコボコであった。俺はすぐにT.kakutaさんに俺は好きですよ!という旨のメッセージを送りたかったが、実際この曲はよくわからないから本当に好きなのかどうか分からず断念。
 大体一回聞いただけで分かるような曲は、ボス曲にふさわしくない。そういう意味では、tricoroのボス曲である、キャトられ 恋はモーモクは良くなかった。あんなの一発で「ああ、可愛いあざといprim曲だ」ってすぐ分かる。だからダメ。すごい好きだよ、よく口ずさむ。でもやっぱり、plan8かproof of existenceをボスにするべきだった、というか黄イベを先にやるべきだった。
 50回位聞いたけど未だによくわからない。どう聞くべきなのかは、よく分かる。エンジンの音をいじって作ったようなベースの音と、暴力的なパーカッション(フィルインの譜面はホンマモンの「暴力」が降ってくる)、そしてそうして無理やりこじ開けた空間を酔っ払ったような足取りで歌うボーカル(moimoiなのかなあ)。あのボーカルが無ければ、暴力的な側面の強いいつもどおりのボス曲になっていたんじゃないかと思う、が、あのフラフラと動き回るような謎のオリエンタリズムを醸し出すボーカルは、この曲を乗りこなしていない。暴力的なオケを乗りこなすだけの暴力性がないから、酔っ払ってるように聞こえる。でも、必要なものだった。この曲はあのふらふらしたボーカルを要請した(それがディレクションなのかは知らないけど)。
 それでもやっぱり、つくづく思うのは、この曲はボーカル曲なんかじゃない。ボーカル曲でボーカルがメロディを歌うのは自明中の自明のことのように思われるけど、この曲では違う。そんなものを、メロディに貪欲な音ゲー戦士たちに突きつけてくるだなんて、LEDは、無謀としか思えない無理難題に、挑んでしまったんだと思う。

 そもそも、音ゲーというのはどことなく、今では失われたファミコン時代のBGMへの哀愁に、応えてきたような感じがする。
 俺もDTMをするが、その都度俺の音楽のルーツは、星のカービィだなあ、と感じざるを得ない。なんというか、音の詰め込み方が。究極にシンプルなコード進行、究極にシンプルな音色、そのシンプルさの間隙をギュッ、縫い付けていくようなメロディライン。二度聞けば忘れない、20回聞いたら死ぬまで頭のなかで鳴らしておける。あれはまさに究極の俗っぽさから生まれたものに違いない。よくわからないけど。ファミコン以来、限られた容量ゆえのピコピコを最高に利用するためのメロディ手法が、一番栄えていた時代がSFCだったんじゃないかと思う。最低限の記号としてしかグラフィックでしか、冒険ができなかった以上、それを克服するストーリーと音楽が必要だったが、あの単純な記号みたいな音楽が、まさにガッチリと落ちるところに落ちたんじゃないかと思う。
 で、技術が進化していきゲームが映画に近づいていくにつれて、音楽も映画に近づいていき、つまり実際の音楽に近づいていき、メロディで語る必要がなくなってきた。そんでもって、それと入れ替わるようにしてメロディを押してきたのが、BEMANIシリーズだった。今の音ゲーマーというのは、大体昔からゲーム好きだった人が多いんじゃないかと思う。ファミコン、SFC、64時代の、メロディが敷き詰められて、音の多さでようやく厚みを出せていた時代へのノスタルジーを、音ゲーという音楽に特化したゲームで発散しようとしている。それまで、どこかしら正統的な音楽好きを相手にしていたと思われるBEMANIは、とある時期から「ゲームらしい」音楽が増え始める。それは丁度、ゲームがゲーム音楽をやめて、リアルな音楽に近づいていった、つまりゲーム的アイコンからリアルな3Dの造形の精度を上げていく過程と、丁度逆行するような形になる。その動きはjubeatやReflecbeatの台頭で、完成されたといってもいい。ゲーム音楽の継続を、BEMANIは宣言したんだ。俺にはそう思える。
 だから、今のBEMANIには、昔のゲームファンが多く流れてきたんじゃないかと俺は思うわけだ。メロディが止まったら死ぬ、とかいう風な緊迫感を持たせるゲームミュージックが必要なくなった今の時代で、あのチープなピコピコ音で作られていたメロディが、現代に於いてどう現れるのかを「見たい」という切実な欲求が、現在のBEMANIの潮流を形作っているんじゃないか、と。音の多さは現実の音楽では忌避されるが、ゲームの音楽では歓迎される。それは究極に俗っぽくて、幼稚なものなのかも知れない。だが、それが何だというのだ。何事も歴史に残るものは有象無象のうちから生まれていく。ゲーム音楽が将来のクラシックになるという可能性をあざ笑うやつは、ジャズが勃興した時代にジャズを嘲笑しているのと変わらない。
 問題は、今までの「硬派」なクラブミュージックとかロックとかが好きだった人だ。追い出されてしまったといっても良い。とはいえ、別段同情を抱くわけでもなく、決して共存ができるとは思っちゃいない。音ゲーは時代の要請に応えただけだった。失われたゲームミュージックを求める数多のゲーム好きのオタク達は、普通の音楽好きの人達を駆逐してしまったのだ。そのことについて、俺はどうしようもない。別段、共存できるとは思っていない。でも、したいとは思っている。
 というか、そういうオールドスクール(?)なテクノやハウスやユーロやハードコアを求める典型的な懐古の人々、五鍵ビートマニアやポップン一桁代の人たちは、割と今の音ゲーをマジメにやっていないんだと思う。マジメにやれというわけではないが、いまでもそういう曲を書いてる人はいるのに、それをすっ飛ばして今のBEMANIはダメだ、みたいなことをいう人がいくらでもいる。曲は相対的に増えたから、死んだかのように減った風に見えるけど、今でもギリギリ残っている。本当にそういう音楽が好きならば、黙ってやれ、と。過去曲でもいいから。そういう曲を出してウケると分かったら、そういう曲を出すようになるからさ。そういう点では、まだ自分の好きな人に対して巨額を払うことを厭わぬAKBファンの方が誠実なんじゃないかな。

 で、LEDのやってしまったこと、っていうのは、ゲーム好きも音楽好きも放っておいて、本当のボス曲をぶつけてきたこと。うーん、いわば「ゲームのメタ的なボス曲」。こういうキャッチのセンスが無いのでなんとも言えないんだけどさ。とにかく、「曲それ自体」をしてボスにしてしまおう、という試みが感じられる。つまり、この曲に噛み付いている人々っていうのは、”まんま”とLEDにしてやられている風にしか見えない。RPGで異形のボスが現れた時、僕たちは必死でそいつを倒そうとするけれど、それを筐体を舞台にして音ゲーマー自身をしてゲームに参画させている。その力の物凄さよ。(そういえば、cinderも叩かれているようなのだけど、そっちは本当に音楽の好き嫌いなんじゃないかな。僕は好きです)それにしても、本人はこれがウケると思ったんだろうか。ウケると思ったのなら大層な変態だし、思ってなかったのならホンマモンのコンポーザーである。
 この曲は、本当に生粋の「音ゲーのボス曲」を目指しているようなきらいがある。前作のエルフェリアとかはいかにも猫又が作った難しいゲームミュージックだし、前前前作の夜叉とかはLEDの難しいテラーコアだった。でも今回は、FFのラスボスのような、なんだか本当にわけのわからぬもの(譜面ではなく曲として)が来てしまった。少なくとも、ゲームミュージックを端緒に音楽に興味を持ち始めた人間にとっては意味不明。そういう意味で、相当なチャレンジなんだ、これは。KONAMIの理念に全く合致した、音ゲーの新しさを探る挑戦だ。
 この曲が冥とか卑弥呼とかいった曲と同様に、歴史的に生き残っていくものかと訊かれたら、そうではない。というか、これって本当にボス曲なのか? ONEMORE EXTRASTAGEじゃない、PENDUALのイベントとして、この曲で最後? まだ何かありそうな気がしないでもないんだけど。第一、KAC決勝の黒ペンもボスと言えないこともない。でも、そう考えると当たり前過ぎる話だが、あの枠に猫又をチョイスしたのは無難に過ぎるディレクションだったと言える。そんでもって、クプロニクルコードという一連のイベントの最奥地に共鳴遊戯を突っ込んだことに、何やら意図をムンムン感じてならない。
 まあ、だから、この曲はボス曲としての役目はじゅううぶんに果たしているというわけです。ボスっていうのは、常に脅威として存在するわけですから。そういう意味では非常にゲーム的で、音楽ゲームというジャンルにとっては、コレ以上にないハマり役な曲。ただ、ちょっとアプローチが違うだけで。
 「こんなのがボス曲だなんてユーザーのことを考えていない」、とかいう批評が来たら、作者はきっと「ハイハイ、すいませんでした、もうしませんから」とケロっと居住まいを正して、次からまた音ゲーらしい曲を出してきてくれるのだろう。そういう清々しさを出してくれたら、ますますこの曲が好きになる。だって、面白すぎるでしょう、そんなの。
  1. 2015/06/16(火) 18:49:49|
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怒ってみた

毎日飽きもせずに、駅からパチンコ屋の前を通って帰ってるんですが、ここのところ、看板をぶら下げてぼーっと突っ立ってるだけの女の人がいる。まるで、売上が出せなかったので立たされています、みたいな佇まいで、かといってむすくれてるかというとそうでもなく、というか、命令されたからここにいるのよ、的気高さを感じさせる無表情。オリエント工業手製のマネキンかもしれないが、毎日顔ぶれが違うとあっては用意する側の財布も大変だ。
それでどういう思索が可能かと訊かれると、何も考えていないと正直に言う他ない。ただ、なんとなく不気味だけれども、宣伝の役目は無事果たしていると言えなくもない。否応なく目につくから。不気味だけど。

「怒りは、上品ではないが、決して下品なものではない」というのは坂口安吾の言葉らしいけれど、出典がわからない。ダレか教えて欲しい。全集が電子化されるまで、きっとわからない(あるいは全集を読み通すとかするか)。
ともかくもまあ、怒りは上品でも下品でもないと。いやいや、電車とかでキレてるおっさんみたら嫌になるだろ? 居酒屋で誰かが誰かにブチギレて説教してるのを見るのは嫌だろ? 人が見てイヤになるようなことは、すなわち下品ということです。というか、上品な怒りとは何ぞや。まるで見た人が、うっかり居住まいを正してしまいそうな、そんな甘美な怒り? そんなものはあるんですかね。「あなた、脇の下が臭くてよ!」と上品な貴婦人がブチギレているのを見ても、下品だなあ、と我々は思いますな。きっと。上品な振る舞いをする人ほど、キレているのを見ると下品さの度合いが上がる、とか考えちゃうと、上品なのも考えものです。
だから、この言葉は違う、ということを言いたいのではないことは自明の理の理の理です。もはや、理を構成するひも状の何かそのもの。怒っている人がダサくて、バカに見えるのは、その怒りの対象及び原因がちっぽけだからです。何かのドラマで、「何を悩んでいるのかで、その人間の器が分かる」と誰か(誰だったか思い出せないつらい)が言っているが、それと同じく「何に怒っているかで、その人間の器が分かる」というわけですね。
ま~~、「こんなふうに考える私性格悪い」とか、「いつまで経っても変わらない自分が~」とか、大層ちっちゃな器ですね~~~とか思わんでもないのですが、電車で赤ん坊が泣いてる程度でキレ気味のツイートをしたり、電車で席を取られる程度でキレ気味のツイートをしたり、キャラでないのであれば大したものですわ、とウンザリをするわけです。そういう怒りの浪費にすっかり慣れてしまっているわけですから、大切な怒りも「ダサいもの」としてみなされてしまう。例えば昨今の政治の状況とかに。

政治的な話題になるのは、こんな人里離れた場所にぽつんと建つ一軒家みたいなブログにとって好ましくないので、ネタバレをすると、これは枕でありました。枕が長すぎて、というか枕が書きたかったんだろう、枕と言っておけば何を言っても甘く見られるとか思ってんだろう、と思われても無理からぬ話で、まあその通りなのでございます。なので敢えて枕の結論を出してしまうと、「悩みを浪費すんな」「怒りを浪費すんな」、本当に切実な悩み、怒りに直面した時に後悔するのは自分だぞ。自分の卑小な悩み、怒りの経験で、目に映る現象を裁いていたら、後悔するのは自分だぞ。
うん、ぱっと見怒ってますね。怒れている。良かった。
伊藤計劃氏のブログをまとめた『伊藤計劃記録』の文庫版が出ているので読んでいるとちらっと言いましたが、この人、口が悪い。そして、怒るときは怒ってる。で、後でその怒りを冷静に分析している。あー、好き。
まあ、それを見て、安吾の上に挙げた言葉を思い出したわけです。こういう怒りはとてもごもっともであり、また、大した動機になるわけですね。創造的な怒りなんて言ったらすごい陳腐で死にたくなりますが、まあ、つまりそういうこと。哲学者に必要な感情は喜びと怒りである、と言いますが、ニーチェなんて怒って喜んで怒って喜んでの繰り返しですね。最終的には狂って死んでしまいましたが、なんともまあ、充実している人生です。

だから僕も怒ろうとしている。それも、上品でも下品でもない怒り。
でも、生まれてこの方温厚に生きることが楽に生きるショートカットであることを知ってしまっているので、まあ怒ったことが数えるほどしか無い。怒りなれていない男が、いきなりちゃんと怒れるのか? と訊かれれば、答えは否に決まっていて、何に怒ればいいのかさっぱりわからない。というか、そもそも怒ろうとして怒るものではなかろう、とケラケラ笑われるのが落ちなんである。
そんな折に、某社からお祈りメールが来て、怒りが湧いたのでした。
テメーはワイの何を見たんじゃーーーーッ!
体よく怒りの実験台にされた人事には不幸としか言い様がない事案。
まあ、それと同時に一次面接で落としてきた某社への怒りも高まるわけです。あんな面接で俺の何を知ろうってんじゃバカヤローーーー!という具合で。大体、合唱の指揮者をやっていた、という人間に対して「歌はどうしてたの?」なんて訊くことの無知さよ、野球でキャプテンをやってました、という人に「それじゃあ野球はどうしてたの?」と訊くのと同じくらい野暮なことですし、そう問われたキャプテンは「バカヤロー! 野球をやってたんだよ!」と言うでしょう。だから僕も(やんわりと)「バカヤロー! 歌をやってたんだよ!」と(もっと遠回しな言い方で)言った、けど落ちたという。
愚痴ですね! けどまあ、これはこれでいい! なんて稚拙な怒りなんだ! それでいい!
で、怒りを抑えた後に、ぷんすか怒りながら考える。面接の相手が有能ならば良いけども、あんまり冴えない人であったら、こちらの伝えたい自分の魅力を理解してくれないのも無理は無い。そうならないためにはどうすればいいか? 「バカでも分かるように」するにはどうしたらいいか!
それは自分を知ることに他ならなかった。とても単純。この単純な帰結のために、怒りの矛先にあてられた人事には申し訳ない気持ちでいっぱいです。
そういうわけで、自己分析。でました、自己分析。自己を分析します。自己とは何ですか? あなたとは何ですか?
そんな具合で自己分析というものをバカにしていましたが、「自己分析」というネーミングにあてられて、まんまと目眩ましをされていた自分のバカさ加減にも呆れてしまいます。まだ馬鹿正直に自己分析というものをやってしまった就活生のほうがエライ。彼らには内定をもれなくあげてほしい。
自己を分析することは、不可能です。仮に出来たとしたらどうなるか?
それは、伊藤計劃が『ハーモニー』の結末で描いています。この一冊はマストです。要するに、自分はこうしてこうしようとするとこうなるからこうすればこうなる、ということを一瞬でわかって、それを実行するとしたら、それは何なんですかね? 
来週出さなきゃいけない課題がある。自分はぐうたらな人間だからきっと寸前までやらないだろうが、寸前までほったらかしておくとやらないであろうから、今やらねばらないが、どうしてそれができないかといったら、それはゲーセンに行ってしまうから、またはパソコンでぐうたらネットサーフィンをしてしまうからだ。じゃあ、それらをしなければいいんだ。そういうわけで、ゲーセンにもいかず、パソコンでネットサーフィンをせずに、課題をしました。
こんなの、人間かよ! 自己を分析しきった人間の末路かよ!
これはテキパキ人間とは違います。テキパキできる人間というのは、来週出さなきゃいけない課題がある→やろう、と直で行く人種のことですから。自分のことが分かる、というのはこういうことです。ゲーセンに行っちゃうとか、パソコンでぐうたらしちゃうとか、そういう理由が分かってても、どうしようもできない、そういうのが人間です。自己分析というのは人間をやめようとする試みのことを言うのです。というようなことは、野崎まどさんの作品で言われていたりする。
だから、自己分析というのは決して自己を分析する行為ではないということを念頭におかなくちゃいけない。
では何か? ありていに言ってしまえば、自分の「社会的役割」を探求することであり、また「才能」の話です。
はっきり言ってしまうが、僕には才能がある。わあ、言っちゃった。でも、人間って何らかの才能があるんです、必ず。才能はある。それを探す努力もせずに、周りだけを見て「俺には才能がない」と言う人は、全然自分を見ていないわけです。自分を突き放しているわけです。僕の尊敬する作家いわく「己の才能を、地の果てまで探しに行け。行くんだよ」。
それが本当に自分のことを探すことに他ならない。でも、「才能の探し方」だなんてキャッチよりは、「自己分析」のほうが飛びつきやすいのは確かですね。普通、人間自分が才能を持っているなんて思ってないですし、持っていると思っている人は勘違いしているわけです。僕は勘違いしているかというと、している。でも、それと同時にしていない。矛盾はないと思う。

なーんかめっちゃ長くなっちゃった!
要するに、怒りを原動力にして、そういう才能を言語化する試みをしているわけです。ナンセンスな言葉で言えば、「自己分析」と呼ばれるものだ。でも、そんな呼び方、クソクラエーーー! 自己を知ってしまった人間は人間じゃなくなくるんだからな! 自己というプログラムを走らせるだけのような存在なんだからな! だから、自己分析とやらで自己を知った気になってる奴は、どこかの誰かさんのことを知った気になっているだけっていう話! そんな幻想に突き動かされるような人間になるなーーーーッ! 
少なくとも僕はなりたくない。
仮定された有機交流電燈のひとつの青い証明として、僕という現象を解明する、冷静で科学的な試みをしようというと思い立ったわけであります。
悔しいからね。祈ってもらうのは。
  1. 2015/06/13(土) 20:48:17|
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「可愛さ」を正しく見るために

ちっとも眠くないので、思いつつあることを書こうと思います。

文章にしろ曲にしろ、過去の作品にこだわるということが全くなく、むしろ次をさっさと作りたいが、なんだか今はその時ではない気がする……みたいな、甘えたような気分の間隙を突くように創作活動をしているので、こういうのは非常に面倒くさくてメンヘラくさいやり方だなあ、とは思うのですが、「紅蓮、蒼白、立ち返りて晦冥」(http://ncode.syosetu.com/n0778bt/)という作品をその昔に書きまして(ちょうど一年前くらいだ)、そのあとがきに次のようなことを書いています。

で、ひたすら「日常」とか「普通」とか「一般」とか使ってますが、この小説に出てくるキャラを誰一人として普通だと思ってないです。特に一番の一般人を自負している主人公隼などに至っては、成績トップという時点で普通を凌駕してますね。非凡です。それだから『滓』という暗黒物質に追いかけられることになるんですが。
……これは、最近のキャラクター至上主義に対するちょっとした抵抗だったりします。魅力のあるキャラクター、個性あふれるキャラクター、キャラクター有りきの物語。
こういう風潮下で歓迎されるヒロインを、某人が「白痴」のヒロイン、と凄まじい威力の単語を以って表現しているのを見て、少し考える必要があるなあ、と思ったわけです(この作品ではヒロインが埋もれがちでアレだったワケですけど)。
でも文章で、というか創作として表現される限り、そうならざるを得ない。「そう」なる……というのは、つまり超冷めた視線で見てしまった時に「頭おかしいんじゃない?」ということになってしまうキャラクターです。
だから、俺達は普通だ、と宣言し続けるわけです。
キャラが立ってない! うるせえ、これは俺の普通だ! 何が悪い!
キャラ濃すぎ! うるせえ、これが俺の普通だ! 受け入れろ!
まあ、これでこそ個性、という感じですよね。白痴なんて言われるかもしれないが、でも狂っていない創作物なんてどこをさがしてもないし、彼らから見れば彼らをキャラクターと呼ぶこと自体が狂気なのかもしれない。



読んでもらった友達に「こういうのはあんまり好きじゃない」と言われて、僕自身もこんな文章書いたことをすっかり忘れていたので、とんでもない暴論を書いたとわなないたんですが、まあ、これは別にひとつのスタンスとして別に良いと思う。
が、もちろんキャラクター至上主義というのは存在しません。長編小説を一本書き上げるというのはとんでもなく排熱するものであって、上気した頭の中に浮かんだ蜃気楼のようなものを見て、僕はこんなことを書いたかもしれないが、キャラクター至上主義など存在しない。仮にあったとしても、それは大したものではないです。「主義」といえるほどのものではない。それはいわばキャラクター偏愛家というようなものですし、そういう人は決して創作家ではない。そんなものに抵抗してどうするの、ってせせら笑いたくなりますが、これを書いたのはなんと自分です。かわいそうな自分。しかしまあ、こんな脆い論考は「小説家になろう」というウェブ投稿サイトには無限に転がっていて、この前もなんとなく目についた一本を読んでみましたが、まあ何も勉強していない人が実感で論じているようなもので、苦笑するしかない……が、苦笑してしまったらそれはもう「文芸評論家」の態度になってしまうので、苦笑はしませんが、まあ、とある評論家が言ったとおり、ネットにある90%はゴミです。この文章も含めて。伊藤計劃のウェブに載っていた文章をまとめた『伊藤計劃記録』をようやく手に入れて読んでいますが、これは残りの10%に含まれますね。スゴイ。これが、作家の文章だ、と。

さてこんなものは枕です。枕書くのに20分使っていては世話がない。
「白痴」という言葉が取り沙汰されていますが、これはDJ TECHNORCH氏の言葉です。詳しくはご本人のブログをご覧になってくださいまし。まあ、つまり、萌え系のキャラはみんな白痴なんだと。アイスを落とした程度で泣く、お前本当に大丈夫か?となるようなキャラばっかだと。
それに対抗して、それでもいいじゃんか!と言おうとしたのが、上で引用した文章ですが、そこで述べられていることについて端的に感想を言うとしたら、「だから何?」ですね。大失敗に終わっています。かわいそうに。そんなことにも気づいていないのね。昔の自分はアホなのでキライです。……きっと未来の自分にもおんなじようなことを言われているので、傷つきます。
で、何故「白痴」を取りあげたかといえば、「白痴」といえば坂口安吾だからです。今最も読まれるべき作家だと思いますが、ピース又吉が「白痴」を推薦している程度で、「堕落論」で知名度があるにも関わらずあんま皆読んでいない。ぜひとも読むべき。新潮社の『堕落論』がオススメです。
そういうわけで、「白痴」。「堕落論」の直後に発表された短編で、まあ、堕落論を実践したらこうなる、みたいな話です。安吾は戦後になって「堕落せよ」と言いますが、「白痴」は戦時が舞台です。でもそこには堕落がある。そして、「続堕落論」では堕落は悪いことだ、と言っている。でも「堕落論」では「堕落せよ」という。すごい面白い。

「白痴」のあらすじ、近所に住んでいる白痴の女(人妻)が、ある日突然主人公の部屋に上がり込んできて、布団の中に潜り込んできている。しょうがないから、布団を二つ敷いて寝るけど、女は二分もしないうちに這い出していって、隅っこで体育座りし始める。寒い夜だから、主人公は心配して布団に連れ戻す。そして、別に襲わないから安心しろ、と言う。でも、二分もしないうちに布団から這い出して隅っこで体育座り。もう一度布団に戻して電気を消すと、また女は這い出していって、今度は押入れに立てこもる。
侮辱しているのですか、と主人公は怒りだすけど、どうも様子がおかしい。「女は悄然として、私はこなければよかった、私はきらわれている、私はそうは思っていなかった、という意味の事をくどくどと言い、そしてあらぬ一カ所を見つめて放心してしまった」。そこで、主人公は自分が警戒されているんではなく、むしろ愛情を求められていたことに気づく。まあつまり、1分2分も経ったのに体に触ってこないということは、この人は私を嫌っているんだ、という理論。それに気づいた主人公は白痴の頭を撫でて、肉体が愛情の全てではない、とか諭そうとしかけてやめる。
まあ、これは一部のシーンなんですが……、この白痴の女の人、可愛いでしょ!
男と並んで眠っていて、全く自分に関心が無いようだから(つまり性交渉をしようとしてこないもんだから)、嫌われてるんだ、と思い込んで布団から出てって、隅にうずくまるとか、なんというか健気で不器用な気の使い方で、とても愛らしいんですね。そして、男が彼女の頭を撫でてやると、「女はボンヤリ眼をあけて、それがまったく幼い子どもの無心さと変るところがない」。可愛いでしょう。なんとなく、守ってあげたくなる。チョロい男ならそう思ってしまいそうに、愛くるしく描かれているんですよ、この白痴の女の人。しかも、人妻。
この様子は、なんとなく昨今の萌えアニメの女の子の描写となんとなく似てるんですよね。シチュエーションが淫靡であるにしても、それでも健気さ、愛おしさというひとつの表現ということについては、非常に優れている。エロ漫画家の皆さんはぜひとも参考にしてくださいまし! と言えます。

そこから主人公の生活は変わっていくんですが、細かいこと見ていくと普通にレポートになってしまいそうなので、すっ飛ばしていきます。やがて空襲が始まって、主人公は白痴の女性を連れ出して逃げ出します。その途中、避難する人達の列から逸れて、小川のある方へ行き、小川に飛び込む(この時、水の中を歩く白痴の女性の描写もまたあどけなくて可愛らしい)。川を上っていくと麦畑があり、そこに辿り着いた途端に女は眠り始める。で、物語は終わるわけですが、その締めの一文「今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。あまり今朝が寒すぎるからであった」。
女を豚と言ってしまっている。というのも、前述に主人公の記憶として、ガキ大将に尻の肉を切り落とされながらそうとも知らずに呑気に歩く子豚の挿話があるんですね。そうでなければ豚である必要もない。他の短編では、こういう女のことを虫とか言っていたりする。

この豚という比喩が、つまり人間の動物性をうんならかんなら、とかいうことしょうもないことも考えられますが、正直、考えるべきことが多すぎて疲れてきたので、要するに、「可愛い」とはその程度のものに過ぎないということ。安吾は小林秀雄の「「花」の美しさというものはなく、ただ美しい「花」があるのみである」という言葉について、つまんねえことを言うな、とかけちょんけちょんに言うわけですけど、そういうわけですね。
だから、ここまで読んでくださった方々に失礼を承知でいいますが、今まで書いてきたことはまるきり意味のないことです。何故か、というのは「白痴」を読めば分かるのですが、上について言った「可愛さ」というのは装飾、ディテールに過ぎないわけです。もっと本質的な、安吾的なものはその前後にある主人公の思索にあると言っていい。彼が焼けただれゆく街を見る眼差し、女を見る眼差し、そこに宿る思索こそが骨頂なのです。たぶん。
「可愛さ」の陰にあざとさが垣間見えるのを嫌悪する人が居ますが、そんなものはアホらしいことで、可愛さにそれなりの特別な価値を認めているわけですから、そういう意味では自らにあざとさを課しているのと変わらないのです。つまり、「「可愛さ」というのはあざとさが無い方がより純粋である」という、あざとさ。そんな堂々巡りに意味は無い。
では何に意味があるか? とてもここが安吾らしいところだと思うのですが、この「白痴」に愛らしさを感じるところに意味があると、僕は思う。こういった方がいいか、白痴に愛らしさを感じる自分を発見すること。
まあ、つまり、白痴でもいいんです。可愛ければ。
でも、やっぱり白痴よりは、そうでないほうがいいでしょう? という非常に建設的な発想になっていく。そこから無限の荒野に身を委ね、孤独の旅路を突き進むこと。それが人間の歩むべき自由。

そういうわけですから、つまりキャラクター至上主義というのは、白痴の見せる幻想にしか過ぎないわけです。あな虚し。
でも、やっぱり可愛い方がいいに決まってる。可愛い物は正義なんだよな。
テクノウチ氏が言うような白痴の萌えキャラクターというのは、別に一向に構わないものだと思うし、逆に突き詰めていけば良いと思っています。「New Game!」という最高に可愛い漫画がありますが、あれは素晴らしい。可愛さをあそこまで究極に表現しようとしているものは、貴重であります。
ただ、それを消費するだけであっては、我々は本当に比喩ではなく、豚であるに過ぎない。そのことを忘れて、かわいい女の子に現を抜かすというのは、「事態はともかく彼が白痴と同格に成り下がる以外に法がない。なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか」、ということになる。
可愛い女の子を、豚にするか、それとも人の子にするか。
そういう抜き差しならない問題と考えたら、僕たちは二次元と呼ばれる存在をただの絵と呼ぶことはできなくなるだろうなあ、と思います。
  1. 2015/06/11(木) 02:14:50|
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出版業界対策

先月、出版業界の某社と某社の筆記試験を受けてきました。
別に僕自身が反省したところで何もないから書く必要は無いのですが、そっちに進みたいと考えている! という人が居たら参考になるかと思うので、書くことにします。

要点は、
①時事問題は早めにやらない。
②SPIは早めにやる。
③毎日文章を書く。
④友達が多いと有利。

①、時事問題は早めにやらない方が良いです。少なくとも、一ヶ月以上前から対策する必要はない。
何故かと言うと、早めにやろうとして早く時事問題対策本を買うと、テスト時の最新の時事に対応できないから。一ヶ月前くらいに最新の時事問題一般常識本を買って、舐め回すように読む。
むろん、万全を期すのならば早めからやるに越したことは無いですけど、3ヶ月前とかすごい中途半端でコスパが悪いので、やめたほうがよいと思ってます。まあ、新聞とかテレビ志望でマスコミが好きであれば、それらをみるのは苦でないと思うので、まっとうな方法でチェックする方が遥かに良いと思いますが。

②SPIは早めにやる。これは当たり前ですが…。
中学校レベルの国語、算数の問題が出るという名目ですけど、実際高校レベルの能力がないと厳しい。とくに文系の人は算数対策をしないと時間が無さ過ぎて不可能ですんで、早めにやって解き方を覚えることにしましょう。英語も出ますが、大学入試用の単語帳で十分対応できます。トーイック対策でもOK。

③作文を課されるので。手書きのほうが良いですけど、別にパソコンでも構わないです(僕はずっとパソコンだったけど、割と手書きでも同じような文章は書けた)。
お題が出されて、それについて書くので、件の「即興小説トレーニング」を一ヶ月やってました。それだけやれば、本番でもスムーズに出力できるのですごいオススメ。そのうち文字数の制限をつけて、身体に感覚を覚えさせるともっといい感じに。

④出版社のテストのムズイところは、時事問題と同時にある一般常識。正直言って、一般でも常識でもないし、ググらせてくれ、と悲鳴を上げそうになります。
頼りになるのはお友達力です。僕は合唱団に所属してますが、ミーハーな人からおしゃれな人、オタクまでいろんな人がいて、彼らをツイッターでフォローしているだけで、いろんな情報が色々入ってくる。最近のお笑い芸人なんて知らないけど、みんなが話題にするので自動的に知ったりできるし、大手だと漫画の内容を問われたりするので、漫画好きの友達が二人以上居て、その会話を見ているだけで割と対策になったりします。

こんな偉そうなこと書いてて就活失敗したら嫌だなあ。でも書きたかったので書きました。
色んなコトがあるので、色々と人に話したり壁と話したりしないと、なんかソワソワするんですよね。そわそわする。
そういうわけで明日からまた頑張ります。
  1. 2015/06/10(水) 00:51:39|
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愉楽との追いかけっこ

http://ncode.syosetu.com/n5016cq/
即興小説を毎日一編、およそ一ヶ月半くらい書いてましたが、一区切りつけました。
やろうと思えば無限にできるんですが、これをやっていた理由が某社の筆記試験対策だったので、それを越してしまったらもうやる必要がなくなってしまって、とりあえず就活終わるまで寝かせておこうと思った次第でございます。
一本2000字くらいの掌編とはいえ、35編ともなると大変な物量なので、個人的に気に入っているものをピックアップします。

第14部分「前置き倉庫」
時間がなくて15分で書きましたが、「即興小説トレーニング」というサイトで書いていることを知らないと、意味の分からない掌編。テクストボックスがあって、その上にタイマー、下に「完成!」ボタンがあるんです。まあ、それだけなんですが。
こういうナンセンスなユーモアは円城塔さんに倣ったつもりです。恐れ多くてそんなこと言えませんが。言っちゃってるけど。

第4部分「スマホならびにガム」
制限時間二時間で、一番長い。大体16,17枚くらいの文量で時間も余ってたんですけど、当時はそれ以上書けなくなって投了。
ずっと思っていた憤悶みたいなものを、茶目っ気全開に皮肉った作品です。個人的な位置づけとしては。
裸で大地に降り立つ、というと坂口安吾の「続堕落論」ですけど、実のところ、これを書いた後に読みました。

第13部分「借りてきたタヌキ」
よくわからないけど、何も生産しなかったという点で言えば、ぶっちぎりで娯楽性に富んでいるものではないかと。
ひとつひとつの掌編で、自分の持ち合わせている武器を確認しているのですが、これについては何も得られなかったという。
しかしながら、白い頬を朱に染めれば、ある程度の「かわいさ」を演出できるということはわかりました。

第16部分「靴というリーダーシップ」
まるきり安部公房の「鞄」なんですけど、リミックスみたいなノリで(そんなことしていいのカナ、と思わんでもない)書きました。
ラーメンズのコント「プーチンとマーチン」がなんとなく頭の隅っこにあって(コピーしていつか演れる機会があったらな、とか勝手に思ってるんですが)それが無ければ、あんなオチにはならなかったハズ。

第9部分「或いは、僕もまた」
先日投稿した、「ホット・バズ」という短編の、ご先祖様みたいな位置づけのもの。
今、実際に生きているのは本当に確率論でしかないんだ、という死ぬほど当たり前のことを、当たり前のように表現したものなので、そういう意味ではとってもつまらないんですけど、忘れがちな大切なことは何度でも繰り返す必要があるので。

第11部分「遠い次元の遥かから」
まどマギにおける次元の捉え方についての評論を読み、自分流にループものを作るとしたらこうなるな、と思って書きました。
本当に自分が書いたとは思えないくらい、シャキっとまとまった一本です。1990年代にこれを発表したら、一発でデビュー出来でたんじゃないかと思えるくらい……。

第20部分「天使の微笑む星」
ボランティア至上主義に対する冷ややかな視線……なんてものは、読めばすぐわかるので言うまでもないですが。
そういう人を宇宙人と思え、なんていう安易な教訓を読み取ってほしくないな、と後悔したものです。まあ、そんな熱心に読んでくれる人がいるとは微塵にも思ってないので、頭のなかだけの出来事なんですが……。

第35部分「Because of My Eyes」
一言で言って、気持ち悪い作品。
僕が書く長編作品に於いて、キャラの心情があまり伝わってこないとか批評が来るんですが、それは当たり前の話で、そんなものはもともと眼中になく表現する気か皆無なのです(それなのに心情がトリガーとなるプロットを作るので、駄作が積み上がっていく)。
では何を書いているか? わかんないです。
こういう難解に見えるよくわからないものが格好良いと思ってる中二病かよ、とか思ってもらって一向に構わないと思ってるし、そう思ってくれたほうがこちらも対処がしやすいのですが、もちろんこんなもの格好良いわけがなくて、むしろ気持ち悪さの塊でしか無い。今日、僕の尊敬する作家の先生が、書くという行為が頭のなかにあるものをそのままプリントアウトするように書きだすだけのものであるならば、「書く」必要性などどこにもない、と喝破しておられて、まさにその通りなわけです。吐出されたヘドロのような文章の中から、自分の中にあるはずのない意味不明さをつまみ出す作業にほかならない。その作業と、即興小説の相性は非常に良かった。だから、一ヶ月も持続したわけですね。
無論、こんなものは積み木遊びのようなもので、限られた時間、素材で積み上げていかなければならないものであって、僕の場合は全く以て机上のお遊びに過ぎない。それこそ、偉大なる先代の人達の創造物には遠く及ばない。だから、手持ちの武器を確認する作業、そしてまあ、それを操るための鍛錬。つまるところ、そういうわけでした。ちゃんちゃん。

昨日久々に友達に出会って飲んだんですが、「お前謙虚過ぎだよ、学指揮やってたとかマジ最強なのにさー」って言われて、個人的にはまっったく謙虚であったつもりはなく、逆に威張りすぎかな、と思ってたきらいもあったので、少し驚きました。
といっても、偉大なる先人たちの成してきたことを目にしてしまうと、自分のあまりの小ささに、なにも豪語することができなくなってしまうのです。小澤征爾と自分を比べるなんて、その前提からして失礼に過ぎることだし。
面接官にはもっと自己分析をしろと言われたけど、僕はこれ以上自己分析をしたところでな~~~んにも出てこないと思う。それよりも、そういう外からの意見が必要なんだ。「人を見たら盗人と思え」精神で生きているんで、初対面だとむちゃくちゃ仲良くなれなさそうな感じなのに、意外と話してみると親しみやすい人間らしく、その外殻の内にある内面を、ストレートに出せればいいというわけなんだけれども、そんなものがあるか?と思わずにいられない。人は変われない、なんて嘘八百な話で、内面なんて無限に変化しうる。虫一匹殺せなかったうちの息子が戦争に行って人を殺しまくっている、なんてフィクションでもなんでもない、たかだか七十年前までこの国で起こっていたことなんだから、内面を見たってしょうがない。それよか、能力を見せようと思ったけれども、そんなものは図示できないわけですよね。トーイックなんて不誠実なものは受けたくなかったからほっといたけど、やっぱり数字を求められるとこちらも立場が弱い。僕の武器は結局のところ、意気込みと(今までのところ)折れない心しか残らなかったんですよね……。
つまるところ、そういうところが僕の短所なわけ。で、僕の長所なんて自分からは見えないわけ。大体に於いて、長所の把握なんて「傾向」にしか過ぎないわけで、それは「俺Sなんだよね」とか言いながら嗜虐的な行為に及ぶアホ男が巷に溢れてることを考えるとわかりますね。
だからまあ、謙虚過ぎると言われたことはとても嬉しかったし(別に自分の能力がおもったよりあることが分かったから、とかいう意味においてではなく)、こういうのが「批評」だと思う。だって、僕は自分が謙虚だなんて一片も思ってなかったから。
就活という営為は何も楽しくないし、楽しいとか言ってる人は今までどんな生活をしてきたんだ、と思ってしまうし、経団連という団体も意味不明すぎて、若者の未来を何だと思ってるんだかさっぱりわからんし、頭悪い人にぶつかるとそれだけでしんどい思いをする、大変な行事です。
ただしかし、一人の人間としてようやく活動できる、という光を見ることに関しては、愉楽ですね。夢を見させてくれる。もちろん、愉楽は何も生み出さないということを忘れない限り。
  1. 2015/06/05(金) 23:36:15|
  2. 尋常の日記・雑記
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プロフィール

可児 珊士

Author:可児 珊士
大学生。
元音楽(合唱)部員。旧BASS。
ギターが欲しい年頃。
作家志望。
本陣:埼玉
カラオケ行くと声的な意味で別人化。

アイコンは柊氏より頂きましたΣd(゚∀゚d)

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