弐つの遊戯卓

【五年目】 毎日頑張ってやりくりしていきてます。物書き、音ゲーと合唱やってます。最近DTMとか始めました

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丹念に描かれた暴力だけを残して

「ウォッチメン」。ウィキペディア見たら、全部ストーリーが書いてあって、フフッという笑みが漏れた。ネタバレします。

 最近ヒーローものの映画を見まくっているが、実は「ヒーローが悪役をぶち倒す」という構図が気に入っているからだったりする。例えば、「アベンジャーズ」なんて何も考えずに観られる映画で、みんなそれぞれ何か個人的事情をいるけど、そんなこと言ってらんないくらいにヤベェ敵が出てきたから倒そうぜ! 結託だ!という話だ。これがヒーローの原型、みんなが憧れるヒーロー像。
 「アイアンマン」になると、主人公が兵器製造会社社長だったけど、目の前で自分の作った爆弾が爆発して死にかけたから、今まで俺は間違ってたんだ、と改心したところ、「今までそれで一緒に稼いで来たじゃねえか!」とか言った奴をボコボコにするわけで、ちょっとごたごたしているけど、基本的に悪人をボコる(実際にはもっとストーリー複雑なんだけど、面倒臭かったのではしょった)。「スパイダーマン」は遥か昔に観たので全く記憶が無いんだけど、とりあえず悪役をボコってた気がする。「バットマン」も結局悪役ボコボコにしてた。

 「ウォッチメン」の悍ましいところは、悪役が冷戦という大きな物語であったところ。まさかニクソンをボコボコにするわけにもいかないので、とりあえずロールシャッハが囚人をボコボコにしてる。ダニエルもローリーも囚人をボコボコに。それくらいしかボコボコ枠が無い。悪がいない。
 だってこれはヒーローの映画ではなく、正義の映画なんだもの。
 舞台は冷戦下のアメリカ。ソ連とむちゃくちゃに仲が悪くて核戦争寸前。パラレルワールドらしいので、両陣営戦争始める気満々。「爆撃しろ」とかニクソン言っちゃう。
 突然だけど、「トロッコ問題」って一時期有名だったものがある。以下wikipediaから抜粋。

(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。
(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?


 こういう状況がヒーローの物語中にあったなら、彼らは大抵、第三の道(両方助ける)ことをするんじゃないかと思う。
 つまり、トロッコをA氏が自分で止める、とかいう方法。むちゃくちゃ強いヒーローなら、それができちゃうから、ほとんどの場合そうする。A氏のAはアメリカンヒーローのA、というわけ。
 だが、「ウォッチメン」は、容赦なくこのB氏を殺す。思い切り分岐器で、トロッコの方向をひん曲げる。
 世界の主要都市をDr.マンハッタンというチートヒーロー(?)の力を流用する新エネルギー兵器で破壊した。それによって、何百万人も死んだが、アメリカとソ連は、このDr.マンハッタンという「敵」の前に手を取り合うことを表明した。そうすることで、何億人という人々が救われる。
 正義のためには誰も殺さないようにするのがヒーローっぽいけど、そうではない正義の姿が映像として表現されている。都市が青白い光線で焼かれ、人々が消滅していくシーンを見て、これがヒーロー映画だ、と言えるんだろうか。そこにあるのは、僕らがよく想像はするけれども、表現されてこなかった正義のあり方だ。こういう正義の形もあるんですよ、いかがでしょうか、とまるで「選べる保険」みたいな体で見せつけてくる。映像として、表現として。それが非常に面白かった。
 
 正義は存在する。
 けど、実のところ、僕らは一度も「正義」というものに立ち会ったことがないんじゃないかと思う。今まで表現され、遂行されてきた「正義」っていうものは、実は「正義」の一側面にしか過ぎないんじゃないか、と。不完全な「正義」なんじゃないかと。決して「不正義」なのではなく。
 その不完全な「正義」を、完膚なきまでに見せつける、という試みと、それに対する自らの反応を考えなければ、この映画ってヒーロ映画でも正義の映画でもなくなってしまう。
 でも、「正義」はある。まだ終わりではない。
 最後に届けられるロールシャッハの手記は、そんな希望なのか絶望なのか分からないアイロニーを残して、映画は終わる。
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  1. 2015/07/31(金) 00:13:13|
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「人間」を乗り越える「人間」

 バットマン「ビギンズ」「ダークナイト」「ダークナイト ライジング」を観た。
 2→3→1という順で観たけど、なんにも問題なかった。ネタバレとかいう概念のことはよく知らないが、そういうことがあるかも知れないので注意されたい(思いッきりしてるけど、ネタバレ食らっても遜色のない作品なんで是非)。

 ありえないくらい格好いい。
 アメコミヒーローって、どいつもこいつも謎のスーパーウルトラテクノロジーでスーパーウルトラ最強の俺を作っているけど、バットマンの中の人であるブルース・ウェインはむちゃくちゃ修行してる。ドラゴンボール並の修行量。生まれからしてスーパーウルトラ大企業の社長の息子というスーパーウルトラボンボンの癖して、両親を浮浪者に殺された衝撃から、身を以て犯罪を学ぶために自分から犯罪に走ってムショの中で犯罪者と喧嘩しまくるとかいうダークサイドっぷりを発揮した後、拾ってくれた師匠のもとで修行した挙句、師匠の家に火を放って師匠をボコボコにして帰宅、そのままスポッとウェイン産業の役員の席に着席するとかいう意味不明にハチャメチャな人生。そんでもって子供の頃、コウモリに襲われた恐怖を犯罪者どもにも思い知らせてやろうと、ダークヒーローバットマンが誕生する。
 ラーズ・アル・グールという悪役が実行した悪行って、つまるところ、「一部が腐ったから全部焼却しよう」という発想だ。ゴッサムという街は堕落している、だから街を潰してしまおう! という頭がいいんだか悪いんだかよく分からない思想が動機になっている。それに対するバットマンの反論は「(街が腐ってても)良い人はいる」というとても頼りないものだ。第一、バットマンというヒーロー自体が、他のアメコミ・ヒーローに比べるととても頼りない。地道に積んだ修行と、科学の力で普通の人とのアドバンテージを得ているけど、アベンジャーズの面々に比べたら(女スパイの人と「そして殺す」の人を除けば)「一般人」と認められてしまうようなヒーロー。そして、自らもずっと苦悩しているヒーロー。
 でも、バットマンのいいところはこういうところにある。「ヒーロー」が弱く見えるんだ。頼りなく見えるんだ。それでも、彼は人々を信じている。バットマンは「人間」を信じているからこそ、最後に勝利することができている。「ダークナイト・ライジング」のラストシーン、「ヒーローはどこにでも居る」という彼のセリフが、そのことを非常によく象徴している。彼は「善」の代表として、「悪」と戦っているのではない。「人間」の代表として、「人間」と戦っているのだ。
 ラーズ・アル・グールの「一部が腐っちゃったから、全部破壊してしまえー」という理論は、これっぽっちも人間を信用していない。むしろ、人間を恐れている。「殺人犯が観るようなアニメやゲームは規制しろ!」というような論者と、さして変わらない事を言っているのです。一部を全体と見なす、全体主義者。これではどちらが理想主義者かわかったものではないなあ。
 ベイン(ダークナイト・ライジング)は上下の階層をひっくり返そうと、ゴッサムに核を持ち込む。そして、搾取(というかまあ、収奪)を繰り返してきた上級階層の人々を、片っ端から裁判にかけて「追放or死刑」という頭がいいんだか悪いんだか分からない刑を執行していく。それで革命だ! というわけだけど……これって、別に革命でも何でもないよなあ。ただの暴力の行使、そして抑圧です。それと対峙する(バットマン曰く「良い人」の)ゴードンやブレイクの行動が並行して描かれていくけれど、「家族と過ごすんだ」と頑なになる警察官に、ゴードンが「我々がどうにかするんだ!」と強く言い放つシーンがある。『我々』が、どうにかするんだ! この格好良さよ……なんといえばいいのか分からなくなってきたが、とにかく格好いい。
 ジョーカーという男、ちょっと身近に居てほしくない。バットマンの悪役って、みんなとんでもない過去持ち過ぎじゃないか。ヒーローってこのタイプの悪の前では、手も足も出ないんだ。恐怖に煽動された民衆、という人間の底の前では、バットマンは身動きが取れない。だって、彼は「人間」というものの存在を前提として活躍しているのだから。ラストシーン、タンカーで震えながら沈黙する人々の存在がなければ、バットマンはジョーカーを倒すことができなかった。ヒーローはいつだって、小さな声で助けを求める者の前にしか、姿を表わすことが出来ないのだから。ノーラン監督三部作のうちで、バットマンのヒーローとしての本質が表れていたのは、まず間違いなく「ダークナイト」だろう。「リブート」という企画ならではの、素晴らしい作品だった。

 肉体的に、「バットマン」に出てくるヒーロー並びに悪役は、アメコミ的に大して強くない。多分全員、アイアンマンにワンパンで負けるだろう。けれど、精神的な強さはピカイチだ。ジョーカーとかまず間違いなく、東京を滅ぼせる強さを持ってる。
 そして、我々の暮らす世界に現れるのは、いつだって精神型の悪だ。「人間」を信じられなくなった時、奴らは必ず現れる。その時、まず頼らなければいけないのは、自らに宿るヒーロー、自分自身の「人間」に他ならない。
  1. 2015/07/29(水) 23:53:27|
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じゃーん!

 2週間で長編小説を書き上げました。過去新記録です。
 文量としては230枚くらい。これを文庫本基準に直すと、なんと78枚という脅威の軽さ。ふつうの新人賞は100枚くらい要請してくるので、全然足りません。ただ、読み直して説明不足なところや、補っておきたいところを加えれば、もうちょっと膨らむものと思います。
 で、一度ざっと読み直してみたんですが、文章が下手くそすぎて死にたくなりました。先日の記事で100枚を超えるとバテるとか書きましたが、最初からバテてます。赤入れするのが面倒なくらい。これは人に見せられる状態じゃないので、結構大幅な推敲が必要になりそうで、今から憂鬱です。推敲が一番嫌いなんです。
 内容的には、つまらないと言われるだけの内容になったと思います。自分で読んでて眠くなりました。目論見通りで良いのですが、自分が読者になってみるとすごいイライラしますね。
 というのも、自分は大筋は決めるものの、ディテールは書きながら考えていくので、理屈として行き詰まるところはすごい文体が荒れるんですね。それこそ文法とか、てにをはが機能しなくなるくらいに笑 「文体が耐えられない」ってああいうことを言うんだな。それが生のママでているので、すごい読みづらい。自分が書いたものなので、何を言わんとするかは分かるんだけど、きっと知らないで読む人は分からないだろう文章。
 それと、やっぱり登場人物の生成変化の「ステップ」が見えにくい。というのも、作品を書いてる最中はずっと頭のなかに彼女ら/彼らが存在するので、書いている段階とは関係なく、自動的に成長していくのですね。それが突然露呈するので、「お前いつの間にそんな!」っていう事態が出現する。でもこれって、小説とかシナリオ書き始めの人には絶対現れる症状な気がする。何年間初心者を続ければいいんだ俺は。
 そして最後に、世界観の設定をちょっと面倒臭いものにしたんですけど、僕はSF特有の「その世界観を一人称で語る」というのがなんとなく嫌で、例えば、20XX年、こういうガジェットが開発されて人々の生活はこれこれこういう風に変化した、とかいうモノローグというか、説明調というのがなんだか変だなあ、って思ってました。歴戦の兵士であるソリッド・スネークが「戦争は変わった」というのならともかく、今の時代しか生きたことのない人が、一人称で語ったりしませんよね。現代が舞台の小説で、スマートホンが発表されてから数年、その衝撃的な席巻によりガラケーは駆逐されていった……なんて書かないし、SFの世界に生きる人もそういう感覚でその時代の技術を享受しているんだろうと、敢えて最小限の説明しかせずに、やってみた。
 その結果、全然わかんない!
 説明しないとダメだこら、ガハハ。というわけで、SFが現在の世界を相対化するジャンルである限り、この手法は恐らく永遠に生き残るでしょう。それか、限りない近未来を描くか──『虐殺器官』みたいに。

 そんな具合で大幅推敲をしていきます。一番嫌いな作業ですが、頑張ります。
  1. 2015/07/29(水) 00:47:37|
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怒らせて、食べるお話

 どうしてあなたはここに?
 何を考えてあなたは行動したの?
 あなたはどう思いますか?
 なにか考えはありませんか?
 
 何故? どうして? なんで?
 お答え下さい。喋って下さい。語って下さい。プレゼンして下さい。意見を出して下さい。対案を出して下さい。

 スピルバーグの「宇宙戦争」では、トム・クルーズに息子やおっさんがまくし立てる。
「他になにか方法があるのかよ! 言ってみろよ!」
 トム・クルーズは黙っている。
 ノーラン「ダークナイト」ではジョーカーがまくし立てる。
「自分が死にたくなければ誰かを殺せ」
 クルーザーに閉じ込められた人々は、黙っている。

 あなたはどんな人間になりたいの?
 将来どんな職業に就きたいの?
 十年後はどうなっていますか?
 やってみたいことは?

 自分らしく。ありのままで。自然体で。お前らしく。自分を受け入れて。
 
 ……で、それのどこが、どうして、何故、あなたらしいのですか?

 そんな感じの小説を書いています。200枚程度を目標にしていたら、余裕で突破、多分250枚くらいいきます。
 今までずっと純粋な文字数で文量を図っていたので、書き上げた後に枚数に収まらないという事件が多かったけど、アウトラインプロセッサを変えてみたら、枚数表示ができるようになったために、文量の管理がしやすくなった。
 それで分かったのですが、100枚を越えたあたりからバテてますね、文体が。手癖で文体をキープしていけるのは、100枚が限界のようです。そのあたりから、色々とぐにゃぐにゃしてくる。いろんな人が神経過敏になって、性格が変わったり、セリフが刺々しくなっていく。地の文の肩身がせまくなって、セリフばかり続いて、気がついたら空中にいる。トムとジェリーみたいな。
 「告白して」「イチャイチャして」「失恋する」っていうだけのお話を書いてます。コンセプトは「つまらないものを書こう」。「文句を言われるものを書こう」。批判から身を守るための予防線ではなく笑
 何がテーマなの、とか、この世界は何なの、とか、どうしてこういう世界になったの、とか訊かれても「知らん」と答えるしか無い。むしろ俺が知りたくて書いてるんだ、と。そしたら唐突に『ノルウェイの森』を許せる気になってきてしまった。もう読むことはないと思いますが。

 あるキャラに、「欲望の投影」について語らせたのですが、これはそのまんま作者に帰ってくるブーメランであることに、通学途中の電車内で気づいてしまった。
 斎藤環センセ曰く、アニメとかマンガとかの少女像はオタクたち自身のペニスへの執着が投影されたもの、だという。あんなに現実の女子とかけ離れた女の子像だというのに承認できてしまうのは、その女の子が自分の性的な欲望を満たしてくれるからだ。まあ、これは割とアイドルなんかにも言えると思うし、消費される情報としての身体にはこの種の「欲望の投影」があると思う。だから、可愛いって正義だよね、エロは地球を救う、とか言ってるのは、俺のちんこが正義だ、とか地球を救う、とか言ってるのとさして変わらない、と。さぞかしデカイんでしょうねえ、とか思っちゃう。
 そのことをちょっと言わせてみたんだけども、でも……ここで僕が作ったキャラっていうのは、どうしても、どうしても絶対に、僕自身の欲望の投影になっちゃうんだよね。その平面上では、つまり作品という物語世界に於いては、キャラが相手のキャラの欲望を投影を拒否することは簡単にできるけど、作者がキャラに欲望の投影をしないのは非常に難しい。そして、キャラクター文化というのは、こうやって成り立ってるんだな、と改めて実感。欲望によって生み出されたキャラクターたちに、欲望について語らせる……これでいったい何が見えるんだよ、と。
 で、欲望もなしに、プラトニックでもなしに、恋愛を語ることのありえなくらいの難しさに直面してしまった。
 ディフェンダーにぎっちりと囲まれても、それでもその微妙な隙間を縫っていかければいけないような、そんな感じになっていて、文体が崩れる崩れる。僕は一体誰にこの文章を書かせているんだ、と目が回ってくる。
  1. 2015/07/25(土) 01:20:09|
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それって虚構、フィクション

 「バケモノの子」を見てきた。うふふ。
 泣ける映画なので、友達と一緒に行ったりすると気にして存分に泣けなかったりするので、一人で観に行くことを推奨します。ちなみに僕は「コクリコ坂から」を一人で観ましたが、精神的負荷がデカいのであんまりオススメはしません。

 こう言っちゃなんですけど、「普通の映画」でした。嫌だなあ、この言い方。
 とても良作だと思うんですよね、映像技術面では本当に言うことがない。渋谷交差点のあの夥しい人々の群れを、一人ひとり動かすことによって表現するという、恐ろしい執念と、戦闘の動きの滑らかさと、演出効果の馴染み方と、圧巻。基本的に退屈することはない。
 だから、普通に良作、という意味で「普通の映画」。本当に嫌なんですが、一応褒めているつもりです。
 何故普通か。順番に書いていこう。
 親子愛がテーマの作品だったけれども、実は親子愛じゃないんですよね、これ。「サマーウォーズ」の感想の折にも触れたこと、それは「この物語をやるなら別に家族じゃなくても良かったのに、わざわざ家族でやった意味」ということです。その意味の本質を僕は、家族というものが、その存立自体、自明でもなんでもない共同体であることを知らしめていること、と言った。
 で、「バケモノの子」はそれを思い切りやった。
 主人公の家出少年蓮は、バケモノの熊徹に育てられる。これは、虚構としての親子という家族であって、ホンモノではない。ホンモノではないけれども、そこには確かに親子の絆と愛があったのだ! ……というのが非常にざっくりとした総括になる。
 で、この作品はそれを非常に、上手に語ってみせた。今までの細田作品ではっきりと提示できていた問題を、上手に解いてみせた、というものだった。
 だから、「普通の映画」です。こうやって解くのじゃ、とでも言うような、あまりにも良く出来た模範解答のような映画。
 「おおかみこどもの雪と雨」が馴染まなかった人も、この作品の後では多少見方が変わるんじゃないか、「サマーウォーズ」の見方も変わるんじゃないかな。
 「親であるから」、ではない、「子であるから」ではない、そういう思考停止状態から、僕達が家族という共同体を考え直すにあたって、とてもラディカルな部面を、最もキャッチーに描き出した作品だった。
 で、解答編のような意味合いの強い作品だったように思われるので、スッキリと終わってしまうのだ。それまでの細田作品がもたらしていた不穏さ、そして鑑賞後に糸を引くような感慨が、あんまり無かった。あの感覚を読み解くことが、なんとなく楽しみだっただけに、なんとも普通の映画だったなあ、と思ってしまったわけだ。
 ただ、やっぱり面白いことには変わりないので、周りの人から「とりあえず有名だから観に行ってみたんだろう」と思われても良いような人は観に行くことをオススメする。

 ちなみにヒロインの子は、割と重要な役割を担っていたんだけれども、あまりにもバケモノの人たちとの世界が濃厚すぎて、ちょっと食われ気味で、友人たちの評判はあまり良くなかった。恒例の可愛い女の子を求めている人はちょっと注意。
  1. 2015/07/22(水) 00:54:44|
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「時間が待ってくれる」ってどういうことなの

 金曜ロードショー「時をかける少女」を観た。
 ずっと個人的に思ってたことなんだけど、細田守監督作品三作のあとにターミネーター3って並べた時にすごい面白いと思うんだけど、誰も賛同してくれない。
 いつも通りにネタバレ注意表記のレパートリー尽きたし、そろそろ警告しなくても良い気がしてきたが、まあ一応。

 「Time waits for no one.」←(゚ Д゚)ハァ?
 時は待たない。時は待たずに、人が待つ。「待っててくれてありがとう」と、「未来で待ってる」。
 時が待たないのは当たり前の話で、待つ「wait」という単語は欲望する「desire」と根っこを同じにしているからだ。キリスト教では「神を待ち望む」ことをdesireと言ったものだから、どんなに清貧な信徒であっても欲望者と自らを名乗ることになっていたが、その実態はwaitである。欲望がなければ、何者にせよ待つことはしない。時に欲望があったらそれはそれは恐ろしいSF的な仮定だけれど、「Time waits for someone」となるかも知れない。うん、あれ? ちょっと待って。これってつまり、この映画のことじゃないかぁ。
 つまり、あのくるみみたいなタイムリープ装置によって、時間がコントロール下に置かれるということは、人間の欲望に時間が支配されるということだ。それは時が欲望を持つのとさして変わらない。
 で、冷静に時を欲望によって支配する、という仮定はヤバイわけ。「ターミネーター」然り、『アウターゾーン』の「タイムスケープ」然り、時をかけるっていう概念はもっと鹿爪らしい顔をして、シリアスに語られる必要性があった。実は恥ずかしいことに筒井康隆による原作を読んでいないのだけど、あまり明るい話じゃないと聞く。SFというジャンル自体がシリアスかギャグかに転ぶしか無いシーソーみたいなもんで、円城塔さんのSFとかは真顔でギャグをしているので面白い。
 で、そんなとんでもない設定を敷きながら、テーマを恋愛(僕はラブコメディだと思ってるが)にしたこの映画は、どうしても主人公がバカにならざるを得ない。難しいことを考えないで、今目の前のことを最大限に評価して、じゃんじゃかタイムリープを繰り返す。かの有名な飛翔のバックにある青空の、なんと広く深いことよ。この空にまことの行動への不安さが、どっこんどっこん反映される。甘酸っぱさなんてものではない、これは不穏さだ。時を欲望によって操るという、ヘタをしたら世界を変えかねない行為の大きさと、まことの欲望の小ささの不釣合いが、何故か吊り合ったまま話が進んでいくものだから、この均衡の危うさにヒヤヒヤとするしイライラする。
 そんでもって、このまことの矮小さと引き換え、千昭が自らの正体を暴露し、渋谷の交差点(みたいなとこ)を歩くシーンは、もっと切実な不穏さを醸し出している。「川が地面を走ってる」「空がこんなに広い」「人がこんなにたくさんいる」「野球がまだある」。そして、彼が見たがっている絵が生まれた背景は「千年前の大戦争、世界が終わ」りそうな時。千昭が帰った未来というのは、滅びてしまった世界なのではないかと伊藤計劃も指摘しているところだ。
 そう考えると、「未来で待ってる」のセリフの切実さ、真摯さというのはただの格好いいセリフに収まらない。「イケメンだから許される」じゃねえんだよ、そういうレベルでしかものを観れない人間の多さにげんなりする。青春の甘酸っぱい恋愛、四次元的な長距離恋愛、けれども通じあっている心の強さ、清らかさ、そういう風に見えるが実際はそうではない。
 千昭は欲望をまことに置いて、未来へと帰った。そこでいつまでも、待ち続ける。時間は待っちゃくれないが、もはや待たせる必要がない。待つのはいつだって、人だ。欲望するのはいつだって、人だ。今まで様々なSFが扱ってきたタイムリープという、否応なしにアイロニカルにならざるを得ないこのテーマのうちに、「欲望」という微妙な要素を、全て思春期の「恋」に押し込んでしまった。「恋は盲目」というやつで、その他のことには全て目を瞑っている。そのくらい狭い世界でなければ、こんなストーリーは実現しなかっただろうし、これほど多くの人に感傷をもたらさなかったはずだ。
  1. 2015/07/18(土) 00:03:00|
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突きつけられる「物語」

 世には不幸なネタバレが溢れすぎている。私は是非とも健全で幸福なネタバレをしようと心がけている。
 「パトレイバー1・2」と「インセプション」のネタバレがある可能性があるので嫌な人は注意してください。

 劇場版「パトレイバー」「パトレイバー2」を観た。
 伊藤計劃が”世界精神型”の悪役と呼んだ帆場と柘植の登場する作品だけに、非常に良かった。「ダークナイト」のジョーカーと通じる悪役の構造を、「ダークナイト」登場前から称揚していた彼の慧眼には感服しっぱなし。映画というジャンルで勝てる気がしないというか、そもそも勝負する気にならないというか、ほとんど映画入門のガイドに伊藤計劃記録を使っている感じなので、師弟のような関係性であると思っているけど、ここまでくるとキモさしか感じないので、まあ「観てみようかな」→「わあすごいわこの人の言ったとおり」程度のものであると定義付けておこう。
 1で醸した後藤さんの有能っぷりが、2で更に全面に出てたけど、映画を観ていけば観ていくほどおっさんが格好良く見えてくる。いや逆だなあ、格好いいおっさんが好きになってくる。
 80年代の夢想した20世紀末、レイバー、バビロンプロジェクト。でも、あれってなんかもう帆場とか柘植とかいう悪役を、効率よく運用するための舞台装置だったようにしか思えないんだよな。徐々に発展していくテクノロジが、逆手に取られて悪用されるということは、まあ別に誰だって想像がつくだろうけど、そのテクノロジーそのものによって「悪」を表現する、「悪」そのものが目的であり「商品」である、ってことはなかなか尋常の発想ではない。押井監督のシナリオは世界観が先にあって、そこからストーリー、キャラを作り出していくそうだが、あの世界で「悪」を表現して見せつける、という試みは気持ち悪いほどにマッチングしてる。
 特に、2は「戦争」というシロモノについて扱っている。「もう戦争は始まっているんだ」という荒川のセリフ、「このままだと戦争になるぞ」と会議室で慌てる上層部のセリフは印象的だ。そんな上層部に対して、後藤が「だからもう遅いと言ったんだ!」と怒鳴り散らすシーンはすごい、特に表情が。「SHIROBAKO」で木下監督が「ブサ顔が良い」みたいな風に語っていたけど、可愛い女の子のブサ顔よりも、冴えないおっさんのブサ顔のほうがずっとグッと来ますよ。「これはもしかしたら戦争ではないのか?」と気づいた時には、もう既に始まっているもの、よくわからないけど、なぜだかそうなってしまっているものが戦争だ。柘植は「そういう状態」を東京に作りだした。「戦争」というものを、市民に感じさせるために。「不正義の平和と正義の戦争」、戦争を他に押し付けて仮初めの平和を満喫している……これはまるきり「スカイ・クロラ」にも通底するテーマであり、更には『虐殺器官』にも繋がっているテーマにもなってしまっている。日本が平和でやってこられたのはそういう混沌を他に押し付けてきたからであって、その混沌のアウトソーシングによって天秤が吊り合ってきたからに他ならない。それを、「平和ボケした」人々の肌に直接突きつけた柘植という男は、逮捕された折「どうして自決しなかった?」と松井刑事に訊かれ、こう答える。「未来を見ていたいから」。必要悪とかそういうレベルじゃない、確かに許されざる悪なのだが、柘植に宿っている美学というものはそういう善悪をすっかり突き抜けてしまっている。、
 非常に面白かったけど、非常に眠かった。繰り返しの映像の中で、滔々と押井特有の長ゼリフを聞いていたら、それはもう眠ってしまいます。寝なかったけどね。面白かった。

 映画好きの友達に「ダークナイト」がすごい良かった、と言ったら同じノーラン監督の「インセプション」を勧められたから観たが、これもすごい。どんでん返しの連続で、一本糸を引っ張っただけでパタンパタンパタンパタン……二時間半の映画だったけど、一瞬にしか感じなかった。独占企業の後継者に「企業を潰す」という思想を、夢を介して植え付ける(インセプションする)という話だったが、このシナリオの巧緻さがヤバくて舌を巻いた。今まで俺がやってきたのはままごと以下だった。
 しかも、その思想の植え付けを何で行っているかというと、夢の中で「物語」を演出することによってである。どんな夢のプランでいくか、つまりどういう物語を演出していくか、ということを主人公たちのチームは散々議論している。「和解」が一番心に訴えかける、よし、じゃあそれでいこう、と決まるシーンは、まるで作家の脳内会議のようだ。そうして演じられる物語というのは、不仲のまま認知症となった父親は息子である自分の顔も認識しない、ところが夢の中では健全な父親が語りかけてくる、というもの。お前を気に入らないと言っていたが「それはワシのマネをするからだ」、「自分の道をいけ」。そうして、彼らは和解する。「夢」の中で構成された物語に沿って息子は行動し、その最後にそういう結末を迎えるわけだが、その「そういう考えを抱くように」作られた(捏造された)物語によって、あたかもその夢の主が自発的にその考えを得たように思い込むことが「インセプション」なのである。これは、「MGS2」のS3計画に通じるところがある。雷電はラストシーンで自分をこれから見つけていく旨のことを言うが、それでも結局のところS3の思惑から逸脱できていないあたりに、この作品の突きつける絶望がわだかまっているのだが、「インセプション」はそれがストーリーの主軸にあるにせよ、結局のところ主人公たちの人生ドラマを演出する装置としてしか機能していないところが非常に面白い。息子と父親の和解のシーンは、感動的である。それが「作られ」「捏造された」物語であると分かっていても、何故か心を突いてしまうような何かがある。生きている以上誰にでも実装されている「共感」というものに訴えかける何かがあるんだろう。だけれども……それは結局のところ、「物語」でしかないんだ。その感動や和解によって植え付けられたのは「捏造された」思考であることを、観ている人は分かってしまっているのに、それなのに思わず感動してしまう。そんな自分の感性に対する疑問を喚起してくるのだ。もし、あの和解のシーンで素直に感動してしまい、そういう疑問を抱かなかった人がいれば、その人は「物語」の格好の餌食になってしまうだろう。この映画は、そういう批評性を持つことの重大さを、ひしと提示してみせたのだ。

 ああ、疲れた……こんなに書くことになるとは思わなかった。
 映画という媒体は、これだけ壮大な物語を二時間かそこらでまとめてしまうので、こう言っては何だが非常に消化効率が良い。本とかTVアニメは、否応なしに時間がかかってしまうけれども、映画はきっちりと時間内に終わるので鑑賞しやすいし感想も量産しやすいし、シナリオの作り方など非常に参考になるところが大きい、それに何度でも観ることが容易い。
 よいものだなあ。
  1. 2015/07/17(金) 02:15:53|
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意味のない意味



最近思ったことは、良質のものを読まないと、書きたいと思うようにならないということで。
それと同じことで、良い曲を聞くと、こちらも作りたくていてもたってもいられなくなるということ。
そういうわけで、一曲作りました。作業時間は9時間くらい、所要は3日。繰り返しをごまかせば、二分くらいの曲ならそれくらいでできたりする。
怨恨、怨嗟、悲哀、悲嘆、無意味ということの無意味さ──そんなことはこれっぽっちも考えずに作りました。後半の一分間がよくできたなあ。ブレイクのピアノが全然できなかった時はどうなることかと思ったけど。

「貴方様の今後のご健勝を、心よりお祈り申し上げます。」
というわけで、(モチーフとしては)そういうトラックなのですが、意識して作ったわけでもないのについ深読みしてしまう。
あー、全国の小中高生にはすまないが、早く8月終わってくれないかなあ。大学生には9月があるから、まあいいよね。
  1. 2015/07/14(火) 21:31:29|
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パンクするのはタイヤだけではない

金子跳祥さんの 『重力迷宮のリリィ』を読んだ。ライトノベルです。
 久々にラノベらしい文章を読んだ。油断してると誰がこのセリフを話しているのか分からなくなって、ちょっと戻ってゆっくり読んでみても結局分からなくて、結局分からない感じ。それと、会話が噛み合ってないように見えて、単純に読んでるこっちが置いてかれてるだけだったことが少しあとで分かるところ。
 それからイラストがあまり良くない……サイバーパンクなのに、サイバーパンク感が無い。大ボスのデザインを見て笑ってしまった。というか、扉絵に気合が入りすぎていたせいで、ハードルが上がって中身が肩すかしなせいもあるのかも。僕は絵がからきし書けないのでイラストについてどうこう言いたくないのだが、はがない10巻の例もあるし、どうせならもっと数が少なくて良いので、濃密な挿絵が欲しかった。
 それでも、この作品から感じて良かったのは、パンクなとこです。パンクというか、まあ作中で推されてる音楽がロックなので、どちらかというとロックなんですが。コレ、平凡な生活を求めてる平凡な高校生ラノベ主人公を殺すラノベなのですね。その殺し方が実に「伊藤計劃以後」という感じがする。ラノベの潮流が今後、こういう風に動くのだとしたら、是非とも応援したいなあ。そんな印象を受けた。

 本屋に行って、電撃大賞最終選考作品という帯がついていたので買いました。実際、どういう作品が入賞してるのか気になるので、たまにこういうことをやります。木崎ちあきさんの『博多豚骨ラーメンズ』も、そんな流れで買ってしまった。女装男子が好きになれるかも。海外ドラマ観たことないんですけど、海外ドラマっぽい展開で、殺し屋が殺しまくるというエンタメ作品。博多愛が感じられるんだけど、これを読んだ人が博多に行きたくなることは無いんじゃないかな笑。

 何故そんな話題を出したかといえば、そういう時期だからです。
 4月末に新人賞に応募した作品の落選を、さっき確認しました。相変わらずの一次落選である。もう慣れた。
 まず、プロットが長い。だいたい新人賞の文量は200~300枚程度であるのに、余裕で400枚は書くので、後で切り詰めていかなくてはいけない。ストーリーはすらっとするが、そこでまず魅力が無くなるのでダメ。
 次に、アイデア。高3の時に考えたものをズルズルと使い古していたのがいけない。そのアイデアを使って作った機構は、当時僕の持っていたものを表現するのには十分機能したのだが、どう考えても今の僕が(というか半年前の僕が)表現するにあたって過重で、アイデアが支えきれていない。構造からして無理がある。
 大体、キャラがダメで、各々の設定を見たら、真っ白で笑ってしまった。
 何故あんなヒートアップして書けたのか謎でしょうがない出来栄えなんだけど、今設定集とか見返そうとしたら全部どっかいってる。先回りされて削除されたのか……。
 作品は完成させることが大事で、完成させればさせるほど良くなっていくとは言うけれど、それにしたって今作で6作目、下積み時代(今もそうなんだけど)のを含めると9,10作くらいは長編を書いている。本当に才能がない可能性が上がってきて、ちょっと大変だ。どうなっちゃうのよ、俺!

 そういうわけで、そろそろ次の長編に着手しようと思います。
 人の作品に偉そうなことを言いつつ、それは全て自分に帰ってくることなので、それなりに締まった作品にしたい。うん……。
  1. 2015/07/11(土) 23:34:56|
  2. 前書き及び総目次
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赤ずきんちゃんと香辛料

 金曜ロードショー「おおかみこどもの雪と雨」をみた。二度目。
 「サマーウォーズ」で消えたと思った不穏さが、ジャックポッドと言わんばかりに再到来している。最初からずっと不穏がつきまっていた。心がざわざわする不穏さ。雪のモノローグのせいかも知れない。
 この映画にネタバレするようなネタは無いので余裕でかましていきます。

 それにしても賛否の多い映画だ。時かけとかサマーウォーズとかの素直さとは真逆で、家族という共同体への追及が増した分、受け付けない人が出てきたんじゃないかな。それか、花の母親としての姿があまりにも強すぎ、見ている人にそういう親の姿を強要しているように思わせるか。
 構造としては、「人と獣のハーフの子が生まれたらどうやって育つの?」という仮定のもとでストーリーが進んでいく。子育てを当たり前のものではなく、人それぞれ特殊なものであることを伝えたいと監督が言っているが、それとはまた別でケモナーとしての妄想力を爆発させていった感じが、チラチラどころかモロに見える。雪のパンツもモロに見える。最初で母の物語って言ってるけど、やっぱりこれは子の物語だよ。「親がなくとも子は育つ」ではなく、「親があっても子は育つ」。坂口安吾だ。
 家族という最小の共同体単位へと引きこもったはずなのに、ずるずると社会へと引きずり出されていく人間性と、自然の中へと分け入っていく動物性。育っていくにつれて、雪と雨の生きる向きが入れ替わっていき、衝突する。きょうだい喧嘩で、雪が敗れて泣いているシーンは物悲しい。女の子として生きなきゃ、といつの間にか内面から自分を社会に結びつけていく雪と、自然という世界に自分を見つけた雨と。ラスト、立ち去る雨にハナは「あなたに何もしてあげられてない」と叫んで、雨は息を呑んだが、これはそのセリフによって雨自身が母親である彼女に、何も残さなかったことに気づいてしまった動揺なのではないかと思う。なので、崖を駆け上り、朝日をその身に浴び、最高の勇姿を見せつけたのだ。僕は親になったことはないので知らないが、親であるという細田監督が夢見ている、「子の独立」のひとつのモデルなんじゃないかな。
 さんざっぱら迷惑かけておいて、山に入るんかい親不孝じゃ、というような人もきっと居るだろうが、ここでもやっぱり坂口安吾で、「親切をするならオオカミに食われる覚悟でやれ」。親が子を育てるのは、身も蓋もなくいってしまえば「親切」なんだな。それで花自身も非常に満足気なあたり、立派な親です。子育てのためにあらゆるものを捨てろ、と言うのではなく。
 それにしても、草平は偉大だ。雪の正体がオオカミであることを黙っていたのは、それがこれっぽっちも雪という女の子の本質とは関係がないことを、了解していたからなんだろう。あまりにも理想主義に思われそうなシーンではあるけれど、理想だからといってそれが何だ、という話だ。オオカミ、だから何だ。そういう告白に対して、何の衝撃も同情も軽蔑も示さない、「だから何だよ」とでも言わんばかりの表情……あのシーンは本当に良い。その後で「だからもう泣くな」、と小6に言わせるのは、理想主義どころの騒ぎじゃないが、別に良いじゃない、そんなのは大した問題でもない。

 後半のカタルシスは、前半通過してきた不穏さのお陰でなせるワザである。
 あの不穏さは……生きることへの不安、そのものだ。あんな小さな子どもが、成長していくという不安定さと不穏さ。あの不穏さは、なんだか近代的のものな気がする。柄谷行人が『日本近代文学の起源』で言うように、子どもは近代になって作られた概念である。中世等で子どもは「小さな大人」だったし、子どもが死んだらまた生めば良い、という考え方が普通だった。「アサシンクリード2」のDLCでカテリーナという女王が出てくるけど、子どもを人質に取られて門を開けないと殺すと脅されたのに対して、股間をあっぴろげて「またここから作ってやるわ」とか挑発する。パンツの色は白だったと記憶している。これは世界史マニアの間では有名な話らしく、一応史実らしい。まあ、子どもというのはそういうものだった。が、近代に入って学校というものが発足すると同時に、大人たちという社会が守り育てるべき「子ども」というものが誕生した、というのが、まあ柄谷さんの指摘したこと。
 社会の支援を全て断り、山に入って全て自力で自分の子を育てていこうとする花の姿は、ある意味では近代以前の子育ての姿と重なるのかもしれないが、それだとこの子どもにつきまとう「不穏さ」という、近代的な印象と衝突する。周りの人と関わらないようにして、人目につかないところに引きこもったところで、結局社会に取り込まれてしまうのは、当たり前といえば当たり前過ぎる帰結だ。一旦、近代から抜けだそうとしたものの、結局雪と雨を学校に進学させたことに鑑みると、これを「理想的な信仰すべき母親像」として批判するのはちょいと早計な気がしないでもない。

 正直に言って僕はこの映画好きなんだけど、いまいちよく分からない。考え過ぎな気がしないでもなく、もっとシンプルに観るべきなのかも知れない。だけど、あの不穏な感じ……雪が積もった山を、駆け抜けていくシーンの、あの「時かけ」と同じような空の色が、とにかく不穏でならなかった。だから、今日この映画を観るかどうか悩んだんだ。結局観たけど。
  1. 2015/07/11(土) 00:47:29|
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音、色、砂、砂、砂

 マウスが壊れかけている。勝手にダブルクリックしたりするのはまぁ良いんだけど、ドラッグを手放すのはちょっとやめて欲しい。いい加減買い替えどきかなあ、500円マウスで3年持たせるだけの物持ちの良さよ。貧乏性とはちょっと違う。貧乏性なんだけどさ。
 今日は卒論の計画書を提出。なんだか、本気出したらすぐ終わってしまいそうなほど、やりたいという意欲に溢れた計画書になってしまった。それよりも、同じゼミの先輩達の卒論を見せてもらったんだけど、内容いかんよりも、広く活躍している人の名前があることにビビってしまった。世間は狭いというけど、そうではなく、大学という場が広いんだと思う。いろいろな人が集まるから。

 それで、午後には池袋へ行って観てきました。「マッドマックス 怒りのデスロード」。
 ツイッターで話題になっていて名前は知っていたけど、話題になった程度じゃ僕は動かないのでへぇ~と思っていたところ、私淑する先生が「みろ」というのですぐさま観に行ってきた。
 まず、ネタバレ注意とか、そんな勧告すること自体が野暮であり、注意に対する注意を要請する作品である。ツイッターでも流れていたように、この映画のあらすじは「トラックで出かけて、帰ってくる」だけ。そして「トラック」「火を吹くギター」「ババア」でこの映画の説明はすべてついてしまう。こんな映画にネタバレもヘッタクレもありゃせず、それでも「どうして帰ってくることバラしちゃうんだよ!」とか言っちゃう人は、あんまり作品全般を楽しむセンスが無い。仮に見る前に、脚本を全て読んでしまっても全く映画としての面白みは一切減じることがない。何故なら、この映画は頭をつかう必要がない代わりに、全力で身体で観ることを要請してくるからだ。
 ネット評で「皆殺しマリオカート」「字幕なんて必要ない」とか書いてあってひどく笑ってしまったのだが、まったくもってその通り。トラックに乗って、追手をぶち殺していくだけの筋であるのに、「アクション以外の要素を求めていはいけない」とか言っている評もあって、これにもひどく笑ってしまった。「アクションがイマイチ」とかいう評にも。ご苦労様という感じで、ものの見事に「マッドマックス」の餌食となっている。というのも、あの延々と続くアクションシーンのお陰で「意味飽和」状態になってしまっているのだ。こんなブレイクの少ない映画は初めて観たが、そのアクションの否応なしの連続に身体がついていかなくなっている。身体とは、目とか、耳とかのことで、頭で因果を整理していくことを必要とせず、「いま、ここ」を延々と圧倒的な映像で並べ続けているために、その絶え間ない緊張が見ている者にとてつもない負担を強いる。そのうちに負担を軽減するために、アクションを見ないようになっていくし、それに伴う爆音を聞かないようになっていく。まぁ、つまり体力がないというだけの話なんだな。そういう人のために言うとするならば、これは「バカが観る映画」ということになる。僕はバカです。あはは。
 見ていてずっと思ったのは、主人公一行は「ハーレム状態」であること、そして「戦うハーレム」というもの。「ババア」も含めて、マックスと一人のウォーボーイを除いたら全員女だった。これには笑った。ハーレムを成して、高速で移動する車両を舞台に戦っているとか、日本のオタク的「ハーレム」に真っ向から喧嘩売っているような図になっていて、おかしくてたまらなかった。主人公がスーパーウルトラ無欲なのもまた面白い。朴念仁とかいうレベルではないし。そしてまた、誰も彼を求めていないのでそれがまたピタッとハマっている。まあ、あんな状況で求めるというのがどうかしてるなあ。お情け程度のラブロマンスを、ウォーボーイというこちらに寝返った人間にさせたことが、ささやかなハーレムの成就というか。
 そんでもって、「さすらう者」。行き先が無いことを知った一行は、脱出してきた「砦」へと舞い戻っていく。「砦」というのは、一人の男が神格化されて崇められ、「上」と「下」で隔てられた独裁社会である。「下」へは時折水を解放するだけで、大体の財は「上」が保有している。核戦争後で荒廃した土地が舞台なのに、「上」には緑すらある。「下」は多数のガリガリの人々が跋扈している。そこからわざわざ逃げてきたのに、またわざわざ引き返すのだ。新たな「故郷」とするために。
 ラストシーンで、「下」から「上」へ上るリフトに、多数の「下」の人々が乗り込んでいく。冒頭では、「上」の人間によって「下」の人間は蹴散らされているというのに。人々が、「下」から「上」へ……ってこれは、革命じゃないか。民衆が王政を打ち倒す、下克上をする構図と、まるきり同じじゃないか。めっちゃロックだ。ジョン・ロックとかけたわけじゃないが、あの火を吹くギターがジョン・ロックとかかっていたのなら、むちゃくちゃ面白いくらいにはロック。そして、明らかに貢献者であるはずのマックスが民衆に紛れていくラストは、「力」は民衆にあることを表象するかのようだった。

 サイコーのバカ映画でした。制作費いくらかけたんだろう。
 期末レポートを細田守監督「サマーウォーズ」で書こうと決めたので、来週には「バケモノの子」を観に行く必要がありそう。好評価というわけではなさそうですが、別に評価とかは映画を観るか観ないかの指標にならんので、気にせずに行く予定。
  1. 2015/07/10(金) 01:16:34|
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散文を 集めてみたよ 最上川

・エンタメについて
 エンタメにおける、創造者に対するマスの矯正力。集合的無意識という概念を、伊藤計劃と円城塔のタッグが撃破しているのにあとから気付き、改めてバケモノさ加減を知って慄く慄く。この集合的な意思の総体というものは、意識でも無意識でもない、と思うんだが、やはりひとつの意識が働いていることは間違いない。そういう意味では、マスにおける集合的ナントカというのは、エンタメにとって、戯れるべき庭の魚であり、餌を撒いた時に、喰い付いてバタバタするか、それとも知らんぷりされるか、グチグチいいながら食っているか、その反応に伴った水面の動きのようなものである。その魚が口をきく、程度の話なのだ。興味が無いのであれば、さっさと立ち去れば良いし、それでも尚地上に居るものに思いを馳せるのであれば、それは地上のものに支配されているのも同然のことであり、そのことに文句を垂れたり愚痴をいったりするのも地上にとっては予測の範囲内、果ては直接攻撃に移るなど、水から飛び出して地上から見下ろしているものに、体当たりをかます程度のものに過ぎない。期待に応える、などというけれど、実はマスの方が期待するように調教され、いかに調教したのかを忘れない限り提供側は無限に期待に応えることができる。なまじい、自らの表現を求めたら、マスからしっぺ返しを食らう。地上としては別に痛くも痒くもないが、疲れた体にそのノイズは煩わしすぎるのである。
 そういうわけで、エンタメはマスを洗脳しているかのように見えて、マスに支配されている。そのことはまあ、別に悪くはない。場合によっては綺麗に、場合によっては醜悪に見えるだけのことで。

・親切という両刃の劔
 僕は「親切」というものが本当に怖くて、あれは場合によっては暴力とさして変わらないんじゃないかと思ってる。不親切にしろ、親切にしろ、どちらも意識に表立って出てくるべきものではない。親切をしてあげよう、という心持ちが少しでもあれば、それは親切という皮を被った暴力になる。
 例えば昔の話だが、僕は不精なので靴紐がほどけても放っておいておくことが多い。立ち止まるのが面倒くさいから、電車待ちとか信号待ちの時とか、否応なく立ち止まる機会を待って、紐をぷらぷらと遊ばせておく。すると、親切なおばあちゃんから声をかけられる。「ねえ、靴紐解けてるわよ」。僕が「はい、知ってます」と答えたら、「ええ、何それ」と心外そうに言われた。いや、知らんがな。「あ、ありがとうござます、気づきませんでした」と言ってニコッと笑うのを想像したのだろうか。知らんがな、という感じだ。
 ウルトラ当たり前の話だけど、親切は良いことであるし、こういう時にはやっぱり「ありがとうございます」とにっこり笑う方が絶対に良いことは当たり前である。ただ、この「当たり前」に潜む暴力性には、気をつけなくてはいけない。大体において、考えなしに親切が良いものだ、と思い込んで親切を実行する人は、相手にそれなりの報酬を無意識に要求している。例えば、笑顔であるとか、感謝の言葉であるとか、だ。そういうものを受け取れないと、理不尽さを感じて怒ったりする。助けてやったのに、何だその言い草は、というふうにムッとする。しかしながら、被親切側にとっては、そういう親切は青天の霹靂なのであって、それ自体が既に理不尽な来襲なのである。それが、自分の本当にしてほしかった行為とかけ離れていた場合でも、その親切に何かしら報いなければならないというような強迫観念に襲われる。その理不尽さに対して、つっけんどんな態度を取る場合もある。東日本大震災の折、ボランティアでやってきた人たちを白眼視する人々が居たということからして、親切というのはいずれにせよある種の暴力性を免れない。
 とはいえ、「やらぬ善よりする偽善」というのは間違いがない。僕だってできる範囲のことは、当たり前だがやる。これは全て親切をする側の心構えなのであって、坂口安吾の言葉を借りれば「オオカミに食われるくらいの気概でやれ」という話だ。海外では観光客相手に親切心を逆手に取ったスリとか窃盗の手口があるし、フィリピンなんかで貧しい子どもたちが可愛そうだからって施しをしたりすると「養い手」がすごい怒ってくるらしい。そんでもって、アフリカで大虐殺で起きたのは先進国の善意によって、子どもの生存率が格段に上がって、人口が爆発的に増えたことによる貧困が切欠である。
 たったそれだけのことで、人間は怖い、親切するのをやめよう、とか思うくらいなら、最初からするなよ、としか思わない。持ち金を全部奪われても、酷いしっぺ返しを食らったとしても、戦争が起こったとしても、また誰かに手を差し伸べるくらいのことをする。その強さや思慮がない者の親切や善、「あなたのためを思って」とかいう言葉は全て、もれなく、余すこと無くオナニーに過ぎない。

・近況
 近所の野良猫がぎゃーぎゃー騒いでいる。うちの近所に棲息する猫達はだいたいブサイクだ。それでも生きている。ちなみに、最近かわいい子を発見した。
 ぼやっとしていたら7月の5日になっていた。昨日の記憶が無い。一週間で唯一登録している講義が今日あったけど、休講になってしまったので一日暇だった。おおよそ就活生とは思えない。ちなみに、7月はメガ暇です。6月に選考をやっちゃう不真面目な企業には全て落ちて、8月に選考をやる真面目な企業だけが残っているので、必然的に間の7月が暇です。お陰様で卒論に集中できますが、あらましの提出が〆切が9日なので大した恩恵がないという、呆れるほどの意味の無さ。就活失敗したら、雑誌に寄稿しまくろうかなあ、とか思ってしまうレベル。
 高3の頃からアウトラインプロセッサで文章書いてるんですが、最近はとにかく思うところがあったらすぐにノードを作って書く、ということをしているので、ちょっとした文章がコロコロ転がっている。今日はそこから、2つ選別して載せるということをやってみました。公開するつもりがない文章だったから、ちょっと文章がカタめで、しかも攻撃的。何で載せたんだ、と訊かれたら、なんとなくと言わざるをえない。
 伊藤計劃『ハーモニー』を再読しているが、キアンがもう完全に百合だ、この子。映画が楽しみである。百合といえば『ゆるゆり』の新装版が続々と出ていて、最早音ゲーを節制して買わなければいけない始末で、今後の財政のやりくりが重要視される。そういうわけなので、百合ものの短編を書こうと思ったんだけど、さっっぱり何を書けばいいのかわからないので放置。それよりも、次に投稿する長編に着手しようと思い立ったが吉日、ネタ帳を広げたらプロジェクトの立ち上げが5月10日という。もうすぐ二ヶ月経つ。ううむ、プロットもできてないのに。ちなみに、先週投稿した『Expanded Corpse』はプロット及び歌詞を作ったのが2月、曲が完成したのが4月、一ヶ月放置してから絵をお願いして、上がったのが6月、そして投稿が7月という、地味~に息の長いプロジェクトだった。この位の長さがあって、ようやく一作品仕上げた、という実感がある。実感の後に来るのは虚無感である。お陰様で、百合短編が書けなかった。ああ。まあ、いずれ書きます。
 次に書くお話は、なるべく長編にしないようにします。多くても250枚位に収めたい。相変わらずのボーイ・ミーツ・ガール。ボーイは何故ガールにミーツするのか。この謎は相変わらずグルグル回っている。前作は「生死」とかいうクソ重いテーマを扱ったせいで死ぬほど苦労したので、次は恋愛をテーマに、のんべんだらりとやります。
 で、これで失敗したら僕はもう物語るセンスが無いということを悟って、もっと別の方向から何かしようと思います。何がでるかな。
 とか、なんとなくフラグめいたことを言ってしまった。何フラグかなあ……。
  1. 2015/07/05(日) 00:51:53|
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夏が来ると儲かる人たち

 金曜ロードショーの「サマーウォーズ」を観ました。カットされ放題で清々しかったから、またいずれBDとかで観るかも。

 「時かけ」の不穏さがすっぱりと抜けて、どこか親戚の家に言ってぎゃーぎゃー騒ぐ子どもと、げらげら笑う大人たちの喧騒という、誰もが経験したであろう「夏の頃の思い出」を喚起しつつ、舞台は電脳空間というSF。サイバーな世界にも生きる家族愛や絆を、ものすごく身近な舞台で描いている。
 家族愛なのかあ。僕は「家族となったからには」という風に、無条件で愛がつくとは思わないし、絆も無条件ではない。陣内家でそれらを取り持ったのは、やっぱり他でもないおばあちゃんなのだろうなあ。不穏さが抜けていると言ったけど、それはおばあちゃんの死が一つの日常的な風景として描かれている故だ。おばあちゃんが臥している家に、スパコンで体当たりかましたり池に漁船浮かべたりしたせいで、枕元の茶碗が倒れるとか、もうやりたい放題で笑ってしまう。おばあちゃんの死って、スゴい重要な意味合いを持ってるのに、こんなにもあっさりと描かれているが、それだから僕らはある一瞬でおばあちゃんは生きているんじゃないかと錯覚する。モニターに身を乗り出す家族たちと一緒に、視聴者も一緒に身を乗り出していく、その時に、僕の方までおばあちゃんの意思を感じてしまう。おばあちゃんという意思が、家族に属する人間たちをまとめあげ、最終的には世界が結託した。羽が広がるようなこの爽やかさがたまらない。
 「ALWAYS 三丁目の夕日」がそうだったみたいに、この作品も家族としての再生の物語がある。侘助という。全国の健全なジュブナイル達がうんざりするであろう、祖父母の大量の食料攻め。腹が減ってないかしきりに心配する。あれって全国共通なのかなあ、僕はいやというほど言われてきた。侘助が一〇年ぶりに帰ってきて、すげぇ態度が悪い彼に向かって真顔でおばあちゃんはメシを食わせようとする。何でだろうなあ。最後の最後まで侘助が腹減ってないか心配して、家族として取り戻そうとする。侘助は侘助で、家族に戻ろうとしていた。侘助がラブマシーンの開発者であることを打ち明けた時の、あのお互いが絶望的にすれ違っていたことに気づいた時の表情は、本当にぐっとくる。後に夏希がおばあちゃんの死を知らせて、すっ飛んで戻ってくるあたりで、もうダメなわけだ。
 家族として認められるって、どういうことなんだろう。本当にアトランダムに決められて、自分の意志と関係なく所属させられる共同体。しかしいずれにせよ、おばあちゃんの様な強烈な象徴が居なければ、あんな大立ち回りは演じられなかったことになる。その内で、家族の一員というよりもその前に皆個人として「機能」していた。そうなると、この事件を解決したのは「家族」である必要はあんまり無いんじゃないかという話になってしまうが、まあ、これだけ多くの人々を放心させる爽やかさを持つこの映画の前では無粋な話であって、そもそも何故「SF」を日本的な家系臭の強い「田舎」でやったのか、ということを考えると、むしろこの無粋さは陳腐さに変わる。これは可能性の話なのであって、決して無条件に肯定した映画ではない。自分の勤めをきっちりと果たすことと、家族の一員として機能することがほとんど変わらないどころか、そうすることでしか成立し得ない「脆い」共同体であることも、同時に示しているんじゃないかなあ。だから、部外者のハズの健二も一緒になって戦うことが出来た。「家族」という関係はそれくらい脆いものだけど、だからといって人の繋がりが弱いわけではない。

 マッドマックスを観なければいけないことになって、でもバケモノの子もやるし、ゆるゆり劇場版も放映するし、なかなか今月は大変だなあ。とりあえず卒論の目次提出を目標に生きます。
  1. 2015/07/04(土) 00:16:29|
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ミームを背負ったサイボーグ



一ヶ月半ぶりのUTAUオリジナル曲です。作りました。

 「Corpse」という単語はラテン語の「Corpus」を語源にしていて、これは端的に「body」を指すものらしい。この「Corpse」はキリストの身体であり、同時にキリスト教徒を指し、即ちキリスト教的共同体をも意味していた。そして、英語やフランス語で借用されているように、「屍体」或いは「死んだように無気力なもの」をも意味する。「言語資料を詰め込まれた屍体が肉体の兵団に服して働く」と『屍者の帝国』にあるが、この一文に登場する名詞は全て「Corpse」と表現することが可能で、実際に全てに「Corpse」とルビが振られている(後に例のシニカルな感じで「言葉遊びだ」と述べられる)。
 「expanded」はa〈翼・帆・葉などを〉広げる、b〈…(の範囲・大きさなど)を〉拡大する,拡張する,拡充する、c〈容積などを〉膨張させる・〈胸を〉ふくらませる、d〈議論などを〉発展させる、とかあるが、単純に「拡張された」あたりの意味としてつけた。
 「Expanded Corpse」。最も手に取りやすい辞書的に言えば「拡張された屍体」であるけど、「Corpse」についてわざわざ語源を引き出してまで紹介したことから分かるように(それに伴って「expanded」も辞書を引いてしまった……)、ここでは「Corpse」は屍体を意味しないことにしている。理由は詞を読んでいただければ明瞭である。それでは何を示すのかか、と問われたらよく分からない、としか答えられない。わざわざ「Corpse」なんて厳しい単語を引っ張ってきた理由はここにある。

 世界観は非常にシンプルで、要するに共産主義国へのノスタルジーである。むろん、僕は共産主義者じゃ全然ないし、というかそもそも冷戦の時代に生まれてすらいない。核戦争が確かに肉薄していた時代の空気など、さっぱり知らないから、まあ、ノスタルジーなどというのは変な言い方だなあ。つまり密告告げ口当たり前の共産圏の監視社会、それから「一九八四年」ばりの管理社会です。
 この詞を書いたのは今年の2月くらいで、その時はブレランも攻殻機動隊もターミネーターも観てなくて、『楽園追放』に連なるサイバーパンク短篇集、及び伊藤計劃『ハーモニー』に影響を受けて、非常にざっくりとした世界を想定していた。つまりまあ、アンドロイドと恋をする程度で法律に触れて、あっという間に御用となるような世界である。御用になるのに、特に理由などはない。良くないと思うから良くないと皆言うのであるし、主人公である「私」もそのことには同意している。なので、そういう道徳が無い今を生きる僕達には、彼女たちが追われる理由が想像しにくいかも知れない。
 一応分かりやすい罪状としては、「ゴキブリの目」という監視機構を彼自ら破壊している。国民の税金によって「公民の奴隷」となった彼らが、監視という義務に欠かせぬ「ゴキブリの目」を破壊するのは、立派な職務放棄であり国民への反逆行為に等しい。故に彼は軍に追われ(一応彼は軍用アンドロイドという設定がある)、最終的に彼だけが罰にさらされる。人間である「私」は無罪放免というわけである。

 この筋書きは装飾に過ぎません、考えたいことはこの曲のラストに詰め込んであります。
 アニメ「サイコパス」一期で、「サイボーグ化というものは程度の問題」と泉宮寺豊久が言っていた。誰だっけ?という人は心配しなくても、僕もすっかり忘れていたので必死で調べてやっと見つけた程度の悪役です。全身をサイボーグ化したおじいちゃんです。で、程度の問題というのは、即ちスマホとかパソコンとかいうものは「身体の延長」である道具であり、そういう意味では自分の身体と同義である。それが自らの身体に食い込んでくるか、そうでないかの差でしかない、ということを言っている。同じようなことは攻殻でも言ってます。敷衍すると、例えば僕達は赤ん坊のころに各種の予防接種を受けていて、その恩恵で僕達は特定の感染病に対する抗力を持っている。つまり免疫力がテクノロジーによって拡張されていると言えます。もっと近い例を言えば視力矯正だってそうで、僕は視力が0.1を余裕で割っているので、メガネ或いはコンタクトをしないと生きていけない。テクノロジーによって何とか健全な市民として活動できている。全身を義体化した人間と違うのは、やっぱり程度の差に過ぎない。
 この曲の筋書きに於いて、「私」は歴とした生身の人間で、守られるべき一市民。一方、「君」は1から100まで人工物で作られたアンドロイド。彼はAIによって動作をコントロールし、そこに軍人用のプログラムがインストールされている。けれども、どこかしらで「不確定」な要素があり、彼が何かしらの新しい地平を切り開く思想を得てしまって、それを「私」に伝えたら。それを「私」が理解したら。
 つまり、純粋な人工物であるAIから、全く新しく生まれたイデオロギーを吸収した生身の人間は、サイボーグと呼べるのか。「わたし」と呼ぶべき価値判断体系を、AIにより創出された思考に据え置いた人間は、サイボーグなんじゃないか。
 だから、この筋書きは装飾にすぎないのです。アンドロイドが職務放棄をしたが捕まって初期化された。たったそれだけの筋書きなんです。それに女の子がくっついてただけ。それだけで物語に悲劇性が出るだなんて、思っちゃいませんよ。

 自分で作ったものは解説しないように心がけてきたが……この作品に限っては、ある程度説明を加えておかないと、詞がわかりにくいと思って、こんな長々と書いてしまった。一応、詞の元にするために小説を書いたんですが、なんとこれは未完です。完成する見込みもありません。公開する予定もありません。だって、誰も読まないでしょ笑
 この解説はある程度の部分まで自分のために書かれたものです。だから読む人は居る。僕が読みます。

 収拾がつかなくなってきたので、このへんで。
  1. 2015/07/01(水) 21:34:01|
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プロフィール

可児 珊士

Author:可児 珊士
大学生。
元音楽(合唱)部員。旧BASS。
ギターが欲しい年頃。
作家志望。
本陣:埼玉
カラオケ行くと声的な意味で別人化。

アイコンは柊氏より頂きましたΣd(゚∀゚d)

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