弐つの遊戯卓

【五年目】 毎日頑張ってやりくりしていきてます。物書き、音ゲーと合唱やってます。最近DTMとか始めました

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閉鎖のお知らせ

 こんばんは。突然ですが、このブログは一身上の都合により閉めることにしました。

 一身上の都合と言うと、あらゆるパターンを包含してしまうので、一応言いますけど、単純に完全な匿名であることをやめたかったからです。
 そもそもこのブログは中3の夏、究極のノリで始めたものが究極の惰性によって7年間も続いてしまったものです。仔細は覚えていないけど、確かライトノベルにハマってネトゲから足を洗い、その勢いに乗じて自分も物語を書いてみようという運びになり、ラノベっぽいものの書き出しを友達に送ってみたら「割りと良いんじゃない」という反応をもらい、有名人に握手されてしまったようなテンションで始めました。
 が、ゴミ溜めです。7年の間にあらゆることに挑戦し、失敗してきました。失敗しかしてないですね。一度として成功していない。お陰様で知識はついたものの、黒歴史置き場になってしったわけです。アスリートでいえば筋トレから練習試合までを密着取材した記録の溜まり場なわけです。直ちに削除したい記録が無数にあります。
 そういうわけなので、このブログはとてもローカルにやってきました。というか、ほぼ個人的な記録の場所だった。それを脱したいと思い、もうちょっと人目に付いても良いよう、ブログを一新することにしました(なんか、前にこんなこと言ったような気がする)。

 まあ、簡単に言うと引っ越しなのですが。
 問題はこのブログは絶対に知り合いには晒したくないという僕の欲求です。というか、切実な悩みです。言うほど悩んでいませんが。このブログで誇れるものは、月別アーカイブのべらぼうな長さだけですし、別に書いた文章は残しておこうと思っているので、大した感慨も寂しさもなし。
 で、顔見知りでこのブログの存在を具体的に知っているのは、中学時代の友達だけだ。本当に。マジで。これって割りとすごくないかと思ってる。そんでもって、引き続きなるべく存在を知られないようにしたい。
 だから、引越し先の情報は明示しません。辿られたら怖いから。
 でも、こんな辺鄙なブログに読者がいるなんて思っていませんが、万が一いらっしゃった場合、そんでもってこの先も付き合ってやろう、という人がいらっしゃった場合は、鍵付きコメか何かで連絡先を教えて下さい。引越し先を教えます。あ、あとツイッターを中心にしていくつもりなので、僕のアカウントを知っている人はそこからURLを知ることができるので心配なく。

 立つ鳥跡を濁しまくりの面倒臭さですが、ツイッターでも人間関係に疲れた人が新しいアカウントを作り、「私との関係を断ちたい人はそのままで、そうでない人はこちらをフォローして下さい」とかやっているので、それのブログ版と思ってくれれば。
 新ブログのアカウントは取得しましたが、まだなんにも書いてません。これから書きます。くだらない話を。

 そういうわけでした。
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  1. 2015/08/29(土) 21:48:05|
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ヒーロー6か条

 次に書くお話はヒーローもの、それもダークヒーローものをやろう、と決めたのは先月の頭、7月の上旬頃のことであります。そこで私は勉強しようと思いあらゆるアメコミヒーローの作品を見まくりました。『バットマン』(クリストファー・ノーランによるリブート三部作)、『アイアンマン』『アベンジャーズ』『スパイダーマン』『アメイジング・スパイダーマン』『X-MEN』『スーパーマン』『パニッシャー』『ウォッチメン』とか。やばい、有名どころしか無いのでにわか感丸出しなのだけど、それまでアメコミヒーローなど全く知らなかったわけで、そう考えてみると割りと頑張った方。もっと観たいのあるけど。『キャプテンアメリカ』も実は借りてきてあるので、それも早く観たい。
 そこである程度(見ていれば分かるくらいごくフツーの)特徴、共通点、あるいはここを描いてあるものは面白い、というようなところをまとめてみる。

Ⅰ、強い存在である。トロッコ問題を例に上げてみれば、暴走するトロッコを押しとどめるだけの力がある。
 『スパイダーマン2』が映画スパイダーマンの中で一番好きなのだけど、ピーターが暴走する電車をその身ひとつで停めている。幼さの残る顔立ちの小柄な青年が、獰猛に疾走する車両を食い止める。アホみたいな強さである。能力の質とか、強さとか、そういう以上のものをそこで彼は発揮している。そこに至るまでの過程が過程なだけに、その勇姿に釘付けにされてしまう。
Ⅱ、ヒーロー性が人々へと伝播する。
 まあ、有体に言ってしまえば「希望」というものをヒーロー達は人々へと与える。ヒーローを観た人々がヒーローとなるのである。「ヒーローはどこにでもいる」「少年の肩に上着をかけ世界の終りではないと励ますような男だ」(『ダークナイト・ライジング』)。バットマンたるブルース・ウェインは、子どもの頃にゴードンからヒーロー性のようなものを受け取った。その素朴な真実を自分のものとして、ダークヒーローバットマンとしての使命を果さんとする。「希望」というのは決して単純な意味で用いるのではないことは、この例一つ見るだけで十分に分かりすぎることだ。
Ⅲ、悪を呼び寄せる
 『バットマン・ビギンズ』のラストにゴードンが言う台詞の通りである。バットマンの存在が、ジョーカーという精神面ではアメコミ最強なんじゃないかと思われるヴィランを引き寄せる。
Ⅳ、正義と悪のどちら側にもつくことがある。
 この表現はあんまり正確ではない。「正義と思われていること」と「悪と思われていること」のどちら側にもつくことができる、という方が正しい。曖昧な言い方だが、ヒーローたちが正義とか悪のために戦うのではなく、彼ら自身のために戦っている点は否めないし、否む必要はないと思う。『ウォッチメン』の面白すぎる結末を観てしまえば、「正義と悪」という二元論でものを見ることの危険を知ることができる。彼らもまた人間であることには変わらないし、だからこそアメコミヒーローは受け入れられる。それと、アニメ『夜ノヤッターマン』を観ると分かることだが、ヒーローという装置は簡単に権力を施すことができる。それは単に大きな力を持つからであり、そこに善悪の区別は存在しない。ドロンジョが立ち上がるまで、この対立や葛藤は息をすることを知らなかったのである。だから私はこのアニメを「正義と悪」とかいう定規で見るのは間違ってると思うし、もしもその探求が主題であるのならとんでもない駄作だとも思う。
Ⅴ、懊悩多き、等身大のヒーローの方がより強い力を持つ。
 『スーパーマン』は完全な勧善懲悪のストーリー。アメコミ史上最強(のくせに名前のダサい)スーパーマンと、ヴィランがわちゃわちゃして結局スーパーマンが勝つ。一歩間違えなくとも、トムとジェリー的な永遠性があるような感じ。バットマンも最初はそういう感じだったらしい。なにせ、二次大戦の前から存在するヒーローである、当時コミックを読むようなナード諸君にそれほどの複雑性を求める知恵があったとは思えない(失礼)からこれで十分なのである。しかしながら、時代が下るにつれてみんな頭が良くなっていくのでそれで満足できなくなる。複雑な正義の話が出てくる。その処理を一身に引き寄せたヒーローたちが懊悩しないはずがあるか。一つの答えを彼らなりに導き出した時、一つの真実を垣間見た時、彼らが弱いはずがあるか。
Ⅵ、シンボルである。
 本家アメコミではしょっちゅうヒーロー達は死んで、二代目三代目と引き継がれていく。正直意味がわからなくて、不学な自分には手に余る。めいめいの好きなヒーロー名を叫べば良いだろうに、その名を引き継いでいく。なんだか、そのうち腐敗しそうだなあ、と不安になるが、悪が蔓延る限り、腐る暇もないんだろうな。

 なんだかもっとある気がしますが、自分の能力では今のところここまで。
 単に強い人間が、悪人をボコボコにするのであるストーリーは、いまさら流行らないのでありましょう。『コマンドー』のハチャメチャな面白さは、その映像のスリル感とシュワちゃんの威容、そして脚本の面白さにあります。現代に於いて、単に敵をぶち殺す映像が欲しいのであれば、実はゲームというステキなメディアで十分なのです。自分でできるのですから、これほど爽快なことはありません。
 それでもなお、最近の潮流としてアメコミヒーローが流行りつつあるのは、彼らの絶え間ない努力の賜物であるように思います。流行りは廃れるものですが、どれほどのものを時代に残していけるか、その闘争が現在行われている最中なのです。
 それに便乗するわけじゃないですが、今回この至極当たり前の特徴を書き出してみて、改めてわかったこともありますし、私も頑張ってみようと思います。いつでも頑張ってるんですけどね。
  1. 2015/08/29(土) 02:15:49|
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あっ、それ強いやつ

 僕はあんまり酒を飲まないが、飲むこと自体は好きだ。
 うちの所属する団は、合唱サークルのうちでも屈指の飲みサーとして名が知れているらしく、まあ実際に飲み会の有り様を見てるとおとなしい気風の人ならばそうであると思い込むのも無理はない。合宿先で飲む時はまずブルーシートを一面に敷く作業から始まるのだが、これが他のサークルだとどうなのかは知らない。介護班(のようなもの)が役職として組織化され、ノウハウが蓄積されているが、これはうちだけの特質なのか。まあ、いずれにしても飲み会に特化していると言われたらそうなのかも知れない。
 しかし、友達のサークルの飲み会を聞くと、二本のワイン瓶を一定の間隔を空けて配置し、シャトルラン形式でその間を往復しながら飲み干す”ゼロ次会”というものがあるらしい。瓶単位でイッキするのは日常風景で、飲み会ゲームのようなもので飲ませまくりもしょっちゅう、知らぬ間に二次会に連行され財布から金が消え、終電が無くなり1Kの部屋に十数人でおしくらまんじゅうとかいう事態があったとか。話を聞いたり読んだりするだけなら良いが、酒によって粛清された場というのは非常な不快感を提供してくれる。あまり立ち会いたくないものだが、夜十時くらいに某所に行けばたくさんの人間が地べたに寝そべっている光景を見ることができる。有象無象である。
 酒の、安寧秩序をぶち壊す力はとんでもない。こんな不埒極まるものがどこの文明国にも存在し、数百年以上にもわたって脈々と飲まれ続けているのは、ひとえにその破壊力によるものだと思う。不学だが、祝祭的性格というものはちょっとだけ講釈を聞いたことがある。つまりマンネリな日常で溜まった鬱憤を、お祭りによって晴らすわけだけど、本来そこではあらゆる階級や役回りは撤廃され、彼らは一人の解放された人間として振る舞うことができる。無礼講というやつだ。上司も部下も先輩も後輩もない。ふわふわと浮いたような、無秩序な世界。これって、戦争中とか災害時の風景に似ている。だから、飲み会でのマナーとか振る舞い方とか言動とか、そういうものにいちいち目鯨立てるのはちょっと違う……ということになるが、そういうわけでもないと思ってる、問題はそういう性格のそういう効用をもたらすものが、そのままの形で近代に持ち込まれちゃったことで、そこではアルコールに対するコントロールが必要になってしまうわけだ。けれどまあ、ウマいから仕方がない。人はひいこらコントロールを敷きながら、酒を飲み続ける。
 で、僕は酒はあんまり飲まないが、飲むのは好きである。単純に口が回るようになるからだ。饒舌になる。もちろん相手を選ぶが、アルコール深度によっては相手を選ばない可能性もある。でも基本的に僕は酒に強いので、ムチャな飲み方をしなければ、ビールとかサワー系で饒舌になるほど酔うことは、まずない。
 だから、強い酒が好きになる。味的には日本酒、ワインが好きなのだけど、揃いも揃って悪酔いする代表格なので、ウィスキー、焼酎を強いて飲んでいる。金を出せばうまい。銘柄はよく知らない。むかし、後輩からコンビニで200円くらいで売ってる焼酎を渡されたが、マズすぎて嫌いになったが、後に焼肉屋で美味いものを飲んで仲直りした。酒を最初に飲む時は絶対に高くて美味いものの方がいいな、と思った。
 簡単に影響されるので、読んでる本の中で飲み会のシーンがあったりすると、飲みたくなる。映画とかアニメでは影響されないのだが、活字で書かれるとダメだ。森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』のせいで、電気ブランをバカ飲みして痛い目をみた。
 それでも吐いたことはないし、二日酔いになったことは二回しかない。怖いからあんまり踏み込んでいないっていうだけかも知れない。すごい契機が来たら、ぶっ倒れるほど飲むかもしれない。

 ……結論はない。
 最近酒ばっか飲んでんなあ、って思ってちょっと。
  1. 2015/08/28(金) 01:32:50|
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パニッシュ&デス

 「パニッシャー」はアメコミヒーロー。
 あらすじ。フランク・キャッスルはFBIの元潜入捜査官。
 ある日、潜入先のマフィアの取引を暴くことに大成功! ブツと金と動かぬ現場を抑え、犯罪の検挙に大貢献! 同僚達に歓迎され、数年ぶりに家族水入らずの休暇を取ることができ、ホッと一安心……と思ったら、大変! マフィアの逆襲で家族が殺されちゃった! 親族もろとも! 父ちゃんも母ちゃんも兄妹も従兄弟も嫁も子どもも一人残らず、ぶっ殺されちゃった!
 報復に対する報復に対する復讐心に燃えるフランクは、フランク・キャッスルの名を捨て、制裁人(パニッシャー)と名乗り悪人どもを容赦なくぶち殺すアンチ・ヒーローとして再誕した。
 家族の殺され方は、たまたまピクニックに出ていたらマフィア(ギャングだったかも)の処刑に巻き込まれたとか諸説あるが、まあ、とりあえずパニッシャーさんはエラいこと犯罪者を憎んでおられる。特に法を掻い潜り、その外側で悪事を働く人間たちに対して。「これは復讐ではない、制裁だ」と上手いこと言っているが、もはや自警団とかいうレベルではなくデスノートのニアの言うように「クレイジーな殺人犯」である。だけども、映画「ウォーゾーン」では警察にパニッシャー専門の部署が出来ているというのに、そこの警察官が「あんたが正義だ」と言っちゃう。それも無理からぬ話で、あの殺戮ヒャッハーぶりを見ていると、なんとなくそういう気分になってくる。人の足が吹っ飛ぶような大口径をガス銃みたいにパスパス撃ってる人が正義を名乗っていれば、それはもう正義の側につきたくなるのが自然な心理だと思う。
 正義がどうとかいう話は、この作品にはあんまり相応しくなく、パニッシャーのやり方はあんまり正義とは言えないけれども、正義が実現していない世の中にあっては、彼の行為にもある程度人間として納得できる正当性は担保されている、程度のものだ。。だからそういう意味では、「ある側面で言えば『正義』であり、そうでない面もある」以上のことを言うことはできない。
 パニッシャーさんの尋常じゃない強さについて考えたい。たいていのアメコミヒーロー映画はSF棚に分配されているけど、パニッシャーはアクション棚に配置されている。SF要素は無いのだ。超人的能力抜きで、現実的な(?)ステータス割り振りと装備で最強のヒーローを作ったらこうなる、というようなヒーロー像がここに提示される。「どこにでもヒーローはいる」とでも言いたげなスパイダーマンやバットマンを蹴散らす、強烈なアンチ・ヒーロー像。コマンドーのメイトリックス大佐もびっくりの馬鹿力、無限の防御力を誇る防弾チョッキ、銀行強盗三回やってもお釣りがでそうな圧倒的装備、ありえないくらい無慈悲な鉄槌(人質になった仲間にだって容赦しないぞ)。
 やっぱり、防弾チョッキが強すぎると思うんだ。弾丸食らって痛がってるけど、数分後にはケロリとして立ってる。その治癒力は本当に主人公だ。ヒーローに必要な物は、身体能力とか特殊な攻撃手段とか考えられるけど、体力がなければやっていられない。X-MENのミュータントたちは、あらゆる方面にトンガリ過ぎだが、いずれにしても人間本来の持久力しか持ちあわせていないから主人公にはなれない。ヒーローに必要なものは異常なタフネス。殴られ蹴られ銃で撃たれようが、問答無用で立ち上がる謎のバイタリティ。FPSの主人公ってどうだろう、ゲームにもよるけど弾丸食らっても隠れてればいずれダメージは回復する。TPSでも何かしら食ったりつけたりすりゃあ回復する。RPGだってそうだし、普通のアクションですらそうだ。
 この尋常ならざる耐久力がヒーローに必要不可欠であるとしたら、僕らがヒーローになれることなんてありえないと思うか。「ヒーローはどこにでもいる」という言葉は嘘っぱちか。だって、交通事故にあっただけでも死に、電車に轢かれただけで死に、高いところから落ちりゃ死ぬし、感電したら死ぬし、飯を食わなきゃ死ぬような、アンチSF的次元に生きる僕達にとって、ヒーローは架空の存在でしかないのか?
 まあ、そりゃそうだ。
 ただ、別に自分の身体を以ってしなくても良いんだ。だって、パニッシャーさん防弾チョッキ着てるし。別段、身体を直接拡張する必要はなく、「装置」によって拡張すればいいだけの話なのだ。それにすがって、何度だって立ち上がれば良い。異常なタフネスを発揮すれば良い。それだけの話だ。一人ひとりの身体、地平は違うのだから、それぞれの地平で組み立てたものの中で、その体力を発揮すれば良いだけの話なのだ。
 要するに、僕に限って言えばその「装置」は何かを書くことなんだ。が、僕のことなんてどうでもよく、それぞれめいめいの何かが
あるだろう。何度破壊されても立ち直せるだけのものを、「外注」しなければならない、自分の手で。それからの話なんだ、正義云々のことを考えるのは。
 しかしまあ、パニッシャーさん強すぎて、容赦のない殺人をバリバリ表現している映像的に、相当ナンセンスな部類だ。ワンパンで人の顔を潰すなんて、そうそう見られるものではないな。グロのバーゲンセール。ここに恐怖を読み取るか、それとも僕みたいに仰々しい何ものかを読み取るか(発見してしまうか?)、安吾的に言えば文明の程度がかかっているのか知らん。
  1. 2015/08/27(木) 01:44:32|
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終わりなき間断の映像に

 『カリオストロの城』を今更になって観た。
 アクションシーンとかは面白かったけど、ルパン三世ってキャラクターがあまりにも立ちすぎ、あまりにも安心して見れてしまうだけあって、「いつ終わってくれても構わない」ような映画だった。作品というのは基本的に終わらないことを目標に据え、終わることによって失敗するものであるけれど、面白さに運ばれて最後まで辿り着いたような具合だった。観方が変わったせいかしらん。
 でもやっぱり、名作なことには名作で、小さな万国旗を広げるシーンであるとか、「奴は大変なものを盗んでいきました」という銭形の有名な台詞とか、印象的なものは心に残る。何か一つでも残ったのなら、それはもう製作者の大勝利だから。

 「いつ終わってくれても構わない」映画に対置されるべくは「いつ終わるのか分からない」映画だろうなあ。そしてそれは戦争映画だと思う。『プラトーン』とか『ブラックホーク・ダウン』とかいう作品には、兵士として敵と戦い生き延びる、以上の目的が無い。というか、そういうものが見えないように描かれている。いつ終わるのかわからないし、もしかしたら永遠に終わらないのかもしれない、やむなく最終的には殺されるのかもしれない。しかしながら、とりあえず当面生きるために銃を握り、取り憑かれたように敵兵を映し出し、その破壊に僕達も当座のところは目を凝らし続ける。生きる意味とか、ゴミクズのように散る命であるとか、そこから学ぶ教訓だとかいうものはその映像には主張されず、とりあえずの映像が流されるだけである。『プライベート・ライアン』の有名な虐殺シーン、人間の尊厳無く破壊されていく身体と、ゆっくり緩慢にナイフが突き立てられていく身体、双方に差異などなく、安吾の言うところの偉大なる破壊、愛すべき破壊があるばかりだ。
 戦争映画の「いつ終わるのか分からない」、「いつ始まったのかも分からない」、これって丸っきり僕ら人間生物の生命ではないかと思う。戦争が生命を迸らせるとかいう話をしているのではなく、戦争映画が生命のメタファーとして機能している。戦争には始まりと終わりがあるが、それは歴史上の話であって結局のところ後付の情報に過ぎない。僕達はどうしても、今目の前に転がされた状況からしか、始まることができず終わることが出来ない、そしてその両方に失敗し続けている虚しく孤独な存在なのだ。それを意識や、歴史や、記憶という諸装置によって穴埋めしているに過ぎない。
 だから、基本的に終わりを求めてはいけないし、始まりを求めてはいけない。そういう地平から作品を組み立てなければ、ただ説明に終始する作品となってしまうだろう。説明口調には、僕達と語られる事象を切り離してしまう作用があるが、これはあまりにも危険過ぎることだ。
  1. 2015/08/25(火) 23:40:35|
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手に取り、刎ねる、突き刺す

 男が棚に並んだ物品を品定めしている。バールのようなものを手に取り、バッドを手に取り、チェーンソーに手を触れる。その鋸刃に宿る凶器性に、もしや、という印象を与える。しかし、彼はチェーンソーを手放す。そして、神体のように飾られていた日本刀を掴み取った。鞘から刀身が抜かれる。鈍い銀色。彼は得物を手に取り、地下室へ続く階段へと、足を踏み入れていく。
「ここから先はグロいので見せません」
 それは大学の講義で見た映像で、ものすごく気になる場面だったのに、その先を見せてくれなかった。気になりすぎて、その後の話は全く頭に入ってこなかった。そういう思い出があった。
 で、遂に先日その先を観る機会が唐突に訪れた。
 その映像、というか映画の題名は『パルプフィクション』。ジャンルは「バイオレンス」。男二人組が並んで銃を構えるカットで有名な映画。シド・フィールド曰く「この映画を見た者は、大好きになるか、大嫌いになるかのどちらかである。私は嫌いだった」。僕は大好きだった。
 日本刀を手にとったブルース・ウィルスが、ギャングのボスがレイプされている地下室へと忍び寄っていき、傍観している男を斬り殺す。そうして助けだされたギャングのボスは、自分をレイプしていた男をショットガンで半殺しにする。
 脚本が凄かった。二時間半の映画だが、本当に一瞬で終わってしまった。アカデミー賞脚本賞を受賞したらしいが、役者、映像、台詞のどれかが欠けては成り立たない危うさを孕んだ映画だった。基本的に下品な会話であるのに(fuckの使用回数は250回を超える)、聞こえてくるのは上品な会話だ。バイオレンスな映像であるのに、見えるのは耽美さ、そして爽快さである。英語のヒアリングはさっぱりであるが、それでも語りかけてくる何かがある。
 そして、エンドロールを見ながら、なぜあの講師がブッチによる逆襲のシーンを見せなかったのか全然分からなかった。男がレイプされている映像を見せるのが良くなかったのか。
  1. 2015/08/24(月) 20:37:14|
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申し訳ねえ、情けねえ

 ソファにぶっ倒れて泥のように眠る、という経験を初めてした。そんな僕の近く、正規品のベッドには失恋して眠れない友だちがいる。好きな子と「結婚したい」と常々言っていたのに、フラれた。僕の知る限り、彼女に恋愛の二文字はおおよそ似つかわない。同い年なのに年下のように見える。僕と会話すると、死ぬほど脈略文脈内容の無い会話をする。というか、できる。そういう女の子にフラれた男の近くで、泥酔とまではいかないが二日酔い間違いなしの量のアルコールを吸い込んだ状態で、僕は眠っていた。
 先日はじめてピンサロに行ってきたという友達は、僕がそれほどの酒を飲んだ飲み会の時、トイレの個室に入ってそのまま反応のない後輩を救出していた。隣の個室から侵入して、運びだしたのだ。僕はそのちょっと前に、そのトイレの前に座り込んだ地元の近い友達と会話していた。彼は酔いつぶれていて、申し訳ねえ、申し訳ねえと、レコーダーみたいに何度も言っていた。
 男たちは半裸で踊り狂っていた。真っ赤な身体で一升瓶をあおる。その狂騒から衝立1枚隔てた場所で、僕は後輩の相談に乗っていた。後輩の愚痴を聞いていた。後輩の人間関係を聞いていた。僕は飽きることを知らず、水を飲んでいた。彼らが何を言っていたのかはよく覚えているのだが、自分がなんと言ったのかは覚えていない。僕は酔うと思考と言動が一致するようになるので、普段思っていることをそのまま言った可能性が高い。
 話は戻るが、友達が個室で意識を失った後輩を救出するくだりがあったので、僕は別のフロアのトイレへ向かった。そこには泥酔状態の後輩がおり、僕よりも先にそいつをトイレに連れて行くハメになった。彼は僕の手を放れて後に、ソファに寝っ転がった状態で嘔吐したらしい。
 僕は後輩の持っていた日本酒を奪い取って飲んだ。その後輩とは初めて喋ったが、お互い名前を知っていたので初めて喋ったとは思えないほどの会話をした。何を話したかは覚えていない。
 あらゆる脈略が存在しない。残っているのは断片だけだった。朝起きると、うんざりするようなしんどさを感じた。腹が痛くてトイレに入ったが、何も起こらなかった。
 新幹線で家に帰った。がらがらの自由席。僕の斜め向かいに、失恋した友達の失恋した相手の女の子が座った。肩の骨が変な突き出方をしている、と自慢された。僕は彼女の魅力はよく分からないが、そういうお話のために彼女は生きているわけではあるまい。彼女はピアニストだ。彼女のピアノは流暢に喋る。
 僕は家に帰りつくと、すぐに眠った。
 起きたら親が帰ってきていたので、話をした。
 僕の20代は人生で最も苦難に満ちたものになる。アニメ「SHIROBAKO」にてアニメーターの絵麻が、親に電話をかけるシーンが有る。「私、この仕事で食べていける」。この静謐なる覚悟。まるで二日酔いのように、しんどい感覚がつきまとうだろう。
 ただ、もう一度、泥のようになってみたかった。

Wine comes in at the mouth
And love comes in at the eye;
That’s all we shall know for truth
Before we grow old and die.
I lift the glass to my mouth,
I look at you, and I sigh.


 イェイツの詩。うまき酒は口より入りて、うまし恋は目より至る、と。

  1. 2015/08/23(日) 23:48:59|
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共感に対するひとつの私見

 共感する、って何だか妙な言葉で、太陽が東から昇ることに共感しないし、人間が死ぬことにも共感はしない。というか、そういう風に表現しない。共感はくだらないことだ、と又吉が書いていたけど、くだらないというよりも、共感を特権的に視る意味が大して無いだけなんじゃないかな。何故なら、共感はイメージを先行させるから。それも、自分の頭の中で。受動であれ、能動であれ。
 例えば、基本的に物語は共感を得られるように作られると思いがちだが、そういうものは共感を受動/自動的に再生できるようなイメージを提供しているだけに過ぎない。共感は、その反動だ。
 『スパイダーマン』が人気なのは、主人公ピーター・パーカー/スパイダーマンが家族の死に悩み、生活に悩み、恋に悩み、ヒーローとして悩み、その葛藤を乗り越えていく等身大のヒーロー像が共感を呼ぶからである。特にベン・パーカーの死因は相当しんどい。「アメイジング・スパイダーマン」の死に方は、ライミ版よりも堪える風に描かれている。それは、自分がパーカーの立場だったら、と想像するのが容易な描かれ方をしているから、このしんどさが生まれてくるのである……が、これって共感ではない。伊藤計劃の言った通り、映画は共感や感情移入を要求するメディアではない。ベンの死を見たパーカーは、「嘘だろ」と言うが、その「言葉」自体に共感しているだろうか。そうではない、僕達が勝手に彼の心中を想像するのである。その想像の手助けとなるファクターを、そこに至るまでの過程で散々説明してきたのだ。受動的に想像し、その成果を感情として表出することを共感と名付けているに過ぎない。そういうことを、作り手は狙って「編集」するのだ。出来る限り、我々の共通感覚を刺激するような、受動的に自動的に共感を再生するような「物語」に仕立てあげよう……と。
 つまるところ、「共感」は「手段」であって、正確な鑑賞に繋がるものでもなければ読解に繋がるものでもない。ただ、食を進ませるだけの調味料のようなものであり、合う合わないはあれど食材の本質とは何ら関係はない。という結論に至る。
 では、「我々の理念に共感してくれた人は──」というような言い回しはどうなんだろう。理念に共感もクソもないと思うのだけど。「真実は正しい」という事実に共感の必要はあるか、という話だ。理念は理念であって、基本的に間違いなど存在しない。「悪こそが栄える」という理念は一見誤っているように見えるが、実は全然間違っていないし、そういう時もあるだろう。何故なら善悪は時代によって容易に移り変わっていくものだから。では「悪のみが栄える」といったらどうかというと、これは理念ではない。善悪は時代によって移り変わるものであるのだから、悪のみという限定は意味をなさない。仮にこの理念もどきに共感したというのであれば
、それは妄信、洗脳、調教の結果であり、それと同時に道具である。
 だから、「この理念に共感してくれた人と一緒に働く」等と言うのは、叙述として間違っている。そういう場合に働いている「共感」のような作用は、結局のところ、理念によるものではなく理念のもたらす虚構によるものであるから。共感を引き起こすよう加工され編集された「物語」であるから。
 強く言ってしまえば、共感してくれる人だけ……、というのは、「体よく私の掌中に入ってくれた人だけ」ということの言い換えだということになる。かといって、それが悪いというわけでもない。問題なのは、共感が一つの技術であるということ、そしてそれを特権視しないこと。もっと追及すべきことは、「共感するまでもないこと」だ。東から日が昇り、西に沈む、その繰り返しの内に人は生き、死ぬ。たったそれだけのことだ。
  1. 2015/08/17(月) 22:16:25|
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愛憎ラリーとその結末

即興小説。制限時間30分。お題は「愛と憎しみのサーブ」


 僕という人間は、あまり人から褒められたことがなかった。それは、僕があまりにも社会に不適合であるとか、浮世離れしすぎていたからではなく、ただ単に、「僕という人間」が褒められたことがないということである。
 こういう話がある。ある人物がコップを持ったとしよう。その一連の動作について、彼の脳波について調べてみた時、彼がコップを持て、と命令するよりも前に、彼の手はコップを持つ動作を始めていた、という実験の話。僕達の意識というのは、動作に追随して後付される程度のものでしかない、という科学的証明の話。
 暗い話だ。ある作家はそれを逆手に取って、自らの意識をフィクション、物語であると語った。あらゆる物語は後付で語られる。「いま、ここ」の現実は、全く以て僕らの意識の範疇外に存在する。あらゆる現実は、全てが済んでしまった後に、ゼラチンが凝固するような具合でぽん、と言語に落とし込まれる。そうして、「僕」が生まれる。それは、僕ではない。故に、褒められる僕はいつだってフィクションだった。
 まあ、そんな唯脳論的なことを言っていても始まらない。これは映画ではない、僕というテキストの話である。
 僕は、とある男に声をかけられた。ひどい身なりをしていた。まるでスカイダイビングを楽しんでいたが、パラシュートが開かずにそのまま墜落してひどい目にあった、とでも言いたげな服装だ。
「おれは脱走してきたんだ」
 と、その男は言った。中途半端なヘリウムガスでも吸ったのような、甲高い声だった。
「どこからですか」
「決まってるだろう、留置所だよ」
 そう言って、彼は自分の手首を包み込む手錠を、僕にチラつかせてみせた。
「はあ」
「最近の警察は手錠の使い方も知らねえ。ところで俺の前科は三つあるんだが、一つでも当てられたらお前の願い事を叶えてやるよ」
「はあ」
 僕はこの男が何を言っているのかさっぱり分からなかったが、そのひどい身なりを見ている内に可哀想になってきてしまって、結局その話に乗ることにした。
「ヒントは……」
「ヒント? 例えば、トロッコが走ってくるだろう」
「トロッコ」
「お前は分岐器の前に居る」
「分岐器」
「トロッコはそのまま直進したら、線路修復作業中の五人を轢き殺す。だが、お前は分岐器によってそのトロッコの進路をズラスことができるが、ズラした先にはお前の彼女が線路に括りつけられている」
「なんで」
「でも、お前は分岐器をズラす」
「なぜ」
「トロッコの両輪に巻かれて、彼女は死ぬ」
「どうして」
「どうしても何もない。それがヒントだ」
 男は不潔な前歯を晒しながら言った。僕はどうしようもない胸焼けを覚えた。
「殺し?」
「違う。もっと根源的なものだ」
「……盗み」
「違うよ」
「分からないよ」
 僕はあっさりと降参してみせた。だんだん、この男が心配になってきたからだ。だって、随分汚い身なりをしているし、警察から逃げてきたと言っている、こんな悠長に話している暇はないだろうに。
 すると男は不満そうに鼻を鳴らした。
「クソ、じゃあもっとヒントを与えてやるよ。彼女をお前は殺したことになるな」
「殺ってない」
「さっきの話の続きだ。五人を助ける代わりにお前は彼女を殺した。そしたら、お前はどうする?」
「泣く」
「泣く。そして?」
「……自責の念に苛まれる」
「その通り。で?」
「で……」
「簡単だろう。愛と、憎しみは不可分なんだ。愛と憎しみが、ちょうどテニスのラリーをするみたいな具合で、おれ達は笑ったり泣いたり怒ったり愉しんだりする。どっちが先にサーブしたのか知らんけどな」
「僕は、誰を憎む……」
「お前さん自身だよ」
 男の汚い右手の人差指が、僕の鼻先を指さした。僕はおずおずと頷いて、
「……一理ある」
「だからお前さん自身の手で決着をつけるんだよ。その、汚い両手でな」
 そう言って、男は僕の首を両手で掴んだ。予想外の行動に、僕はひえっ、と情けない声を上げてしまった。
 男はげらげらと笑った。
「お前は大した奴だぜ。誰にも褒められたことがない、誰にも貶されたことがない、ということに気がついている。だが、気をつけろよ。そういう奴は俺みたいになりやすい。だが、俺みたいに脱走することはできない。神様がいいぞって言うまで、人に踏まれ続けるんだ。お前はお前のものではないが、お前の身体はお前のものだ。忘れるなよ」
 僕はその出来事を、20分後に言語化できた。
 そして、男の正体を知った。だからといって、どうしようもなかった。
 僕は「僕」が嫌いだ。「僕」というソフトフェアにオペレートされる僕という存在も、嫌いだ。僕というハードウェアも嫌いだ。
 そういう時、フィクションたりうる僕は簡単に「それ」を実行できる。そのことを、あの男は教えてくれた。不可逆の可能性を大いに含むことも。
 ただ、今はあまりにも人が多すぎる頃合いだ。それは、今すべきことではない。
 愛と憎しみは不可分。僕達の営為は、彼らの織り成すラリー。どちらからサーブを切るのか。
 僕はどちらの側に立っているのか。どっちでもいいか。いま、僕は分岐器の前に立っているのだから。
  1. 2015/08/13(木) 00:23:51|
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狂気を笑い飛ばす狂気を

 先日『サイコパス2』を見終えて、ずっと頭の中で放置してたんですけど、ようやく最近になって書く気が起きたので書こうと思います。一応、物語の中枢部分について言及するので注意。

 シビュラシステムが法の番人として存在する社会。普通に考えて免罪体質が存在するとか、欠陥品にも程が有るけど、人間の手によるシステムである以上、必ず「例外」は伴ってくる。まぁ、そうでなければサイバーパンクとしてSFが機能しないので、そういう要請が出てきます。
 1期が「天然」の免罪体質、2期は「人工」の免罪体質。圧倒的に制御された社会の中で「天然」もクソも無いと思いますが、レトリックとしての天然と捉えてもらえたら良いですね。いずれにせよ、「シビュラ」という社会(法)に認知されない存在というわけであって、しかもそれが犯罪と結びついている。その前提からして、社会の構成員として認められているはずである我々にとっては、是非ともそうであってほしい設定ですよね、これ。社会からはみ出た者を、なんとなく絶対の罪人として見たがる我々の心理としては。
 ベンサムの「パノプティコン」がモチーフとして幾度か登場する。劇中で使われているのは、「健常な市民」と対置する「犯罪者」を発見するための監視機構ということでですね。実はもともとベンサムの発案したこの監獄って、「最大多数の最大幸福」からはみ出たマイノリティを閉じ込めるための施設だったんですよね。つまり、犯罪者、倒錯者という社会のはみ出し者。ベンサムは社会というものの構造上、必ずそういう連中は出てくるのは仕方ないので、隔離してしまおう、できるだけ効率よく、経済的に、コスパ良く、っていう理念のもとに、この一望監視システムを考案した。その歴史を分析したのがミシェル・フーコー『監獄の誕生』というわけだけれど、サイコパスによる「執行」の禍々しさって実は全くパノプティコン的ではない(というか、サイコパスの数値が人の話を聞くだけであっさりと変わるとか、シビュラってあまりにも恣意的に過ぎないか。まあ、その「装置」からして明らかな恣意の介在を感じさせるデザインではあるんだけども)18世紀末から、ヨーロッパでは処罰の方法は、徹底的にコード化されていき、「こういう犯罪にはこういう刑罰を」という対応が出来上がってくる。それまでは、あまりにも司法の恣意や権力の偏りによって、祭りのようなえげつない死刑(四肢を縛って四頭の馬で引っ張り身体を引き裂く刑とか)とかそれに伴う事件とかがあったりしたから、人権に悖るじゃないか、ということでどうにかしようと改革者達は思った。そして、「反人間的な人間を矯正していく」ような処罰の制度が整えられていくことになる。しかしながらシビュラ下の社会では、犯罪と処罰との関係性があまりにも直結しており、場合によっては即興で処理される。犯罪者達は、その場で自身の叩き出す犯罪値によって、その場で場当たり的に処刑されたりする。逮捕して、裁判をして、犯罪の度合いに見合った「矯正」を行わないで、殺す。これでは、「法」の執行ではないのでは? パノプティコンは監視システムのモデルではあるが、その目的はあくまで犯罪者の懐柔であり、内面から「法」に従わせるための機構である。それをしないって、「法」としてどうなの? という話になる。
 その問から導き出される構造、それはシビュラの法の下にある社会が「監獄」であるということだ。そうして処理される犯罪者の身体は、いや、犯罪者が処刑されるという事実自体、同じ社会に暮らす人々への懲罰に等しい。そして、人々はいつでも見られているという意識のもと、内面から調教されていく。そうして、「健全な市民」として「生産」される、それが「サイコパス」という世界だ。1期はその檻の破壊を試みた話である。2期はその支配者たるシビュラの定義を問うた話である。
 2期の評判が悪かったので、あまり期待しないで観ていたのだけど、全然悪くなかった。面白かった。
 ただ、ヤバイくらい派手にズッこけてる。ズコーーッ! と。それはそれで面白いのだけど、そういう問題ではないですね。既に長くなっているので、簡潔にまとめますか。
 最終話に於いて、「集合的サイコパス」を裁けるようになった、それによってシビュラは自身を裁くことが可能になった、という解決が導かれますね。そして、シビュラは自身を構成する脳みそのうち、いくつかを処理する。「こいつらを殺すことによって、我々のサイコパスは安寧に保たれる」という風に言いながら。そして、同じく集合体であるカムイは東金によってドミネートされる。これによって、集団的サイコパス、つまりその人の所属する「集団」のサイコパスを測れるようになるわけなんだけど、それによって自分は悪くなくても所属する集団如何で自分も裁かれる可能性が出てくるようになった。だから、そのせいで今後大虐殺が起こるかもしれない……それでも良いのか? と局長が朱に問う。そうはなりません、と朱は言い返す。
 うん。そうはならないんだと思う。だって、結局何も変わらないし、何も終わったわけではないから。シビュラ自身が自身のサイコパスをクリアにするため、自らの一部を排除したのと同じように、集団がサイコパスをクリアにするために、自らの一部、つまり成員を排除することで集団的サイコパスがクリアに維持できるなら、その後やっていくことに変わりはない。その「排除」が公安にアウトソーシングされるだけの話であって、システムに変更があっても、行われることに変わりはないんじゃないかなぁ。カムイは有機的な集団であったわけだから一発で葬れたわけだけど、人の集団はあくまでも機械的な繋がりでしか担保されない。有機的な人の集団が実現していないのに、集団的サイコパスが使えるようになったところで、結局何も変わらないんだ。朱が最後、カムイに同調していたのは、あくまでカムイを裁けるようにするためだった。自らに宿る「法」というのは、そういうことだ。……だから、それ以外は何も変わらない。「法」というものが、少しだけ変わったに過ぎない話だった。
 そして、霜月監視官の無能っぷり、小市民っぷり、奴隷っぷり……あまりにも朱と対比させすぎていて、笑ってしまいそうなレベルなんだけども、シビュラの真実を知った時に拍手喝采して「素晴らしいです素晴らしいです」と連呼してるのを見て、本当に笑ってしまった。無能可愛い、という新たな言説が生まれそう。「この社会が大好きです」。あまりにも強烈なアイロニーである。私、この監獄が大好きです。だって、真っ当でいる限り生きていくのに不便はないし、身の安全だって保証されているし──。
 自称「平凡な人々」の、露骨なパロディである。霜月監視官の渾身のギャグを笑えなかった人のために解説しよう。彼女は、クリニックに人質として拘束された被害者たちが加害者と認定されてドミネーターに虐殺されていく、ああいう風景を肯定していのである。そのシーンを見て、「グロをやりたかっただけだろ」と思った人はそう思っておけば良いんだろうが、「俺達は被害者だ!」と叫びながら、「法」の力によって肉片と化した人々を見て、その視覚的なグロにしか価値基準を置くことが出来ないような見方は推奨しない。別に「法」は味方でもなんでもないことが、そこであからさまにも過ぎるほど描写されている。司法の絡む事件の当事者となってしまえば、被害者と加害者という立場は実にあやふやなもので、容易にひっくり返ってしまう不均衡を、このシーンはよく示しているわけだ。「法」が私達を守っていることは、実は自明のことでも何でも無いし、何故かその「法」に殺されることもあり得る。そんな「安全」な社会を妄信的に礼賛する人々のパロディ、霜月監視官。すごい笑える。
 つまるところ、シビュラシステムは、全然ダメダメなわけである。「法」の機能として、16、17世紀の身体刑中心の司法制度に完全に逆戻りしている。というか、「真理」を明らかにしようとする態度では、その時代にも劣っている。数値が絶対化されているが、数値は真実を全くこれっぽっちも語っていないし、一元的なデータで人を裁くことに安住している人々の恐ろしさよ。その社会に安住している人々の恐ろしさよ。『サイコパス』にはディストピアにふさわしいだけの絶望と狂気が蔓延している。その社会で巻き起こる事件の面白さ、それを解決していく格好良さはあるが、結局のところ、その実態は狂気なのである。
 サイバーパンクはどうしてもディストピアの相貌を帯びる。身体をテクノロジーで伸張するということは、テクノロジーに身体を外注することと同義であり、身体への責任を手放すということだ。責任から解放された人々が、どこか狂気に彩られて見えるのは、今の所身体を自らの責任で引き受けざるを得ない我々にとっては当然のことなのであり、また20年前の人々も、今の我々に同じような狂気を見出すかもしれない。
 狂気を制するには、狂気を以てするしかない。「社会を愛する」人間を、笑い飛ばす狂気を。
  1. 2015/08/10(月) 20:04:03|
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知の圧力、縮む脳みそ

 近況を素直に書いてもとてもつまらないので、周縁部分を書こうと思います。中枢部分はデリケートというか、まだ誰にも教えたくないのです。

 夏真っ盛りです。冷蔵庫でチョコを冷やして食べるのが、サイコーにクールで良いのですが、それ以外はなにもいいところがない。
 せっかくの夏なので、ずっと読みたかったM.フーコーの『性の歴史 知への意志』とか『監獄の誕生』とか読んでます。それと、予告通りニーチェの『善悪の彼岸』も確保。先日出たばかりの新訳『ツァラトゥストラ』もポチってきました。もうサイコーですね。誤用だとわかった上で言いますが、知恵熱がひどくて部屋の気温が3℃は上がってる。
 ところで、この間暇だったので池袋ジュンク堂行ってきました。4階が確か思想書フロアだったので、うろうろしてたんですが、キルケゴール全集とか、ヘーゲル全集とか、あの重さで床がぶち抜けそう。レンガですよ、あれは。あの厳つさ、荘厳さ。哲学って触れるまでは意味の分からんことを延々と書いているだけだと思ってましたが、いざ読んでみると(ニーチェだけだが)至極、論理的に書かれてるんですよね。全ての学問の祖というだけあって、非常に実証的。だからといって、皆に読んでほしいとは思わないけど。
 で、流石に知恵の圧力に耐えられなくなって今度は文芸書フロアをうろうろしてたんですが、河出文庫がヤバイ。何がヤバイって、ドゥルーズとかフーコーが、文庫で読めちゃうって。ちょっと立ち読んでみたけど、読めちゃうんだけど。訳がつい四、五年出たばかりのばっかりで、すごい読みやすくなってる。それが千円ちょっとで買えちゃう。頭がオカシイ……、普通は4,5千円するんだぞ……。
 と、驚愕したものの、その時は400円しか持ってなかったので、何も買わずに帰宅。『アンチ・オイディプス』と『ミル・プラトー』は絶対にいつか買う。
 ところでフーコーを読んでますが、すごいニーチェみたいだ。我々が普段何気なくそれが当たり前だと思い込んでいる事柄を、常識を、執拗な手つきでバリバリと剥がしていくような、正にメスを入れるという比喩がぴったりな分析。そんでもって、非常にワンセンテンスが長いが、確かな狂気を感じる文章(文体?)。主に移動中の電車で読んでるんですが、3ページくらいで寝そうになります。文章が頭に入ってこなくなる。正に這いつくばるようにして読んでますが、いつ読み終わるか分からんし、理解出来てるのかも分からない。これが意味のあることなのかも分からない。分からないことだらけでげんなりしますが、それでも文章を読んでる時くらいしか落ち着ける時が無いので、なんとも言えないなあ。
 お陰様で、フィクションの供給が映画だけ、という状態。活字にまみれ過ぎた結果の活字中毒状態。
 一応アニメも見てますが、TVアニメってやっぱり基本的に面白くない。映画の見過ぎかしら。なんだかもったいぶってる風に見えちゃって、全体的に。ミルキー三話の法則と言って三話から面白くなるものもあるらしいが、一話とか二話っていう最初のシーケンスを人物紹介とか世界の描写に当てざるを得ないから、最初があんまり面白くなくなっちゃうのか。テレビで放映することを前提に設計されてるから、ドラえもんとかクレヨンしんちゃんとか、あるいは日常系のギャグ漫画とは非常に相性が良いんだろうけど、ストーリーテリングにこれほど向いてないメディアも珍しいというか、観る側に忍耐を強いるよね。耐えることを強いない作品なんてロクなものが無いと思うけど、それとはまた別のベクトルの忍耐。投資的な忍耐。特に2クールアニメだと顕著。物語が終わりに向かって転び始めるプロットポイントに達したら、後は勢いで観ることができるけど、それまでは悶々と過ごさなくてはいけないのが欠点だと思う。これはまあ、TVでやることの宿命だと思うけど。

8月にはもう一本、作品を書きたいと思っている。
思えば、去年の夏にも一本仕上げていて、その出来の酷さにゲロを吐きそうになったわけだ。
あれから一年経ったけど、その呪いに今も苦しんでいる。皮肉な話だ、なんて言う立場ではないけど、しかしやっぱり皮肉だよ。
  1. 2015/08/07(金) 01:27:51|
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With love, from You

「物語だらけね、街は。人間を支えてくれるイメージや物語でいっぱい。みんな、物語を信用できなくなって、苦しくなーれ」

 長谷敏司『あなたのための物語』。
 内容は余命を宣告されたサマンサ・ウォーカーが、死にそうになりながら人工人格(もっとちゃんとした原理があるけど割愛)である《wanna be》と対話するだけの話。ネタバレですが、サマンサ・ウォーカーは死にます。最初の数ページでそう言ってますけど。
 病というメタファーは、この国において結核から始まり、今では癌となっている。癌、という不死の病のメタファー。過去に於いて、結核が治療可能になった途端に、結核が不死の病のメタファーとしては駆逐されたように、癌という猛威も治療が可能になれば、我々は癌を暗喩として使わなくなるだろう。
 けれども、不死の病という表象は消えないで残り続ける。『あなたのための物語』に於いて、不死の病という役割を負ったのは「自己免疫疾患」だった。人はいつまでも物語に、タイムリミットを背負わせ続けるんだろう。だって小説は、終わらなくてはいけないから。けれども、基本的に「書かれたもの」って永遠性を求めるでしょう。いつまでも残るでしょう。三大宗教の聖典がいつ書かれたものかを考えたら、そしてこれからも残り読まれ続けることを考えたら。でも小説は、必ず終わることによって、必ず失敗しなくてはいけない。
 我々だってそうだ。我々というテキストは、いつか死という終わりを迎え、生きることに失敗する。これほどの物語を綴った後に、サマンサ・ウォーカーは動物のように尊厳なく死ぬ。物語として。我々はそれを目撃しなくてはならない。
 人工人格である《wanna be》は、物語が物語足りうる理由を「言語を奪う」ものだからだ、と言う。サマンサ一人の言語を奪うために、私はあらゆる手段を用いることができる、と。
 それは本当に物語的だ。ストーリー、筋道、プロット、伏線、波瀾万丈、手に汗握る、そんなものはここに存在しない。存在する必要もない。ただ静謐のうちに「あなた」へと肉薄する、「物語」。共感を求め、感情移入を強要し、共通感覚の刷り込みを行う、街に溢れる「感動的」な物語ではない、「あなたのための物語」。
 ありえないくらい退屈で、つまらない、「恋」の話。
 我々は素通りし続ける。そういう、退屈で、つまらない、物語を。
 我々は、そこに狂気を見るかもしれないから。極度に突き放された、この世のものとは思えない何かを見るかもしれない。自分の身体を巡る大いなる違和感に苛まれるかもしれない。
 ……けれども、根本的に、誰かのために書かれた物語など存在しない。
 それは、「フィクション」である。テキストによって編集された「わたし」という「フィクション」。フィクションのためのフィクションは、果たして「わたし」の身体の代替となるべきか。
 サマンサ・ウォーカーは提案する、「わたし」と「あなた」を同居させよう、と。けれども《wanna be》は拒絶する。「わたしは死のうと思います」。身体を持たぬ《wanna be》にとって、自らの消失はフィクションの消失と変わらない。自らのテキストを閉じることによって、物語として誕生し、フィクションとして消失する。そこに宿る永遠性は、人間のものよりもより純粋だった。
 そして、このことは「言語を奪う」ための物語という装置を、一般的な解釈に押し留めるのを拒絶している。つまり、我々の言語を奪うのは、「死」という惨たらしい現実によってのみである、という絶望的なる語りにおいて。我々を生から引き剥がすように、じりじりと、或いは一息に言語を剥奪するのは、「終わり」のリアリティにおいて他ならない。何故なら、物語とは必ず終わるものであるから。「フィクション」とは必ず終わるものであるから。メタ物語的な物語のみが、「フィクション」を脅かす。わたしというフィクションを。

 というわけで『あなたのための物語』を下敷きに適当に書いていこうと思ったら、こんなものになってしまった。支離滅裂にも程があるから、一応まともなことを言っておこう。
 ITPという技術は、脳の擬似神経として機能し、他人の人格を自らに投影することができる。そういうわけなので、自分の人格を自分で再生することによって、自らの人格をも機械でアウトソーシングできたりする。だから、身体的な苦痛を「わたし」自身が受ける必要がなくなるのだ。
 これって伊藤計劃『ハーモニー』と繋がるところがある。明らかに。
 そして思ったことは「サイバーパンクでは伊藤計劃の『ハーモニー』を倒すことができない」ということだ。倒すことがあり得るとしたら、それは文学によってだけだ。
 脇腹が痛くなってきた。
  1. 2015/08/05(水) 23:02:41|
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プロフィール

可児 珊士

Author:可児 珊士
大学生。
元音楽(合唱)部員。旧BASS。
ギターが欲しい年頃。
作家志望。
本陣:埼玉
カラオケ行くと声的な意味で別人化。

アイコンは柊氏より頂きましたΣd(゚∀゚d)

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