弐つの遊戯卓

【五年目】 毎日頑張ってやりくりしていきてます。物書き、音ゲーと合唱やってます。最近DTMとか始めました

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「可愛さ」を正しく見るために

ちっとも眠くないので、思いつつあることを書こうと思います。

文章にしろ曲にしろ、過去の作品にこだわるということが全くなく、むしろ次をさっさと作りたいが、なんだか今はその時ではない気がする……みたいな、甘えたような気分の間隙を突くように創作活動をしているので、こういうのは非常に面倒くさくてメンヘラくさいやり方だなあ、とは思うのですが、「紅蓮、蒼白、立ち返りて晦冥」(http://ncode.syosetu.com/n0778bt/)という作品をその昔に書きまして(ちょうど一年前くらいだ)、そのあとがきに次のようなことを書いています。

で、ひたすら「日常」とか「普通」とか「一般」とか使ってますが、この小説に出てくるキャラを誰一人として普通だと思ってないです。特に一番の一般人を自負している主人公隼などに至っては、成績トップという時点で普通を凌駕してますね。非凡です。それだから『滓』という暗黒物質に追いかけられることになるんですが。
……これは、最近のキャラクター至上主義に対するちょっとした抵抗だったりします。魅力のあるキャラクター、個性あふれるキャラクター、キャラクター有りきの物語。
こういう風潮下で歓迎されるヒロインを、某人が「白痴」のヒロイン、と凄まじい威力の単語を以って表現しているのを見て、少し考える必要があるなあ、と思ったわけです(この作品ではヒロインが埋もれがちでアレだったワケですけど)。
でも文章で、というか創作として表現される限り、そうならざるを得ない。「そう」なる……というのは、つまり超冷めた視線で見てしまった時に「頭おかしいんじゃない?」ということになってしまうキャラクターです。
だから、俺達は普通だ、と宣言し続けるわけです。
キャラが立ってない! うるせえ、これは俺の普通だ! 何が悪い!
キャラ濃すぎ! うるせえ、これが俺の普通だ! 受け入れろ!
まあ、これでこそ個性、という感じですよね。白痴なんて言われるかもしれないが、でも狂っていない創作物なんてどこをさがしてもないし、彼らから見れば彼らをキャラクターと呼ぶこと自体が狂気なのかもしれない。



読んでもらった友達に「こういうのはあんまり好きじゃない」と言われて、僕自身もこんな文章書いたことをすっかり忘れていたので、とんでもない暴論を書いたとわなないたんですが、まあ、これは別にひとつのスタンスとして別に良いと思う。
が、もちろんキャラクター至上主義というのは存在しません。長編小説を一本書き上げるというのはとんでもなく排熱するものであって、上気した頭の中に浮かんだ蜃気楼のようなものを見て、僕はこんなことを書いたかもしれないが、キャラクター至上主義など存在しない。仮にあったとしても、それは大したものではないです。「主義」といえるほどのものではない。それはいわばキャラクター偏愛家というようなものですし、そういう人は決して創作家ではない。そんなものに抵抗してどうするの、ってせせら笑いたくなりますが、これを書いたのはなんと自分です。かわいそうな自分。しかしまあ、こんな脆い論考は「小説家になろう」というウェブ投稿サイトには無限に転がっていて、この前もなんとなく目についた一本を読んでみましたが、まあ何も勉強していない人が実感で論じているようなもので、苦笑するしかない……が、苦笑してしまったらそれはもう「文芸評論家」の態度になってしまうので、苦笑はしませんが、まあ、とある評論家が言ったとおり、ネットにある90%はゴミです。この文章も含めて。伊藤計劃のウェブに載っていた文章をまとめた『伊藤計劃記録』をようやく手に入れて読んでいますが、これは残りの10%に含まれますね。スゴイ。これが、作家の文章だ、と。

さてこんなものは枕です。枕書くのに20分使っていては世話がない。
「白痴」という言葉が取り沙汰されていますが、これはDJ TECHNORCH氏の言葉です。詳しくはご本人のブログをご覧になってくださいまし。まあ、つまり、萌え系のキャラはみんな白痴なんだと。アイスを落とした程度で泣く、お前本当に大丈夫か?となるようなキャラばっかだと。
それに対抗して、それでもいいじゃんか!と言おうとしたのが、上で引用した文章ですが、そこで述べられていることについて端的に感想を言うとしたら、「だから何?」ですね。大失敗に終わっています。かわいそうに。そんなことにも気づいていないのね。昔の自分はアホなのでキライです。……きっと未来の自分にもおんなじようなことを言われているので、傷つきます。
で、何故「白痴」を取りあげたかといえば、「白痴」といえば坂口安吾だからです。今最も読まれるべき作家だと思いますが、ピース又吉が「白痴」を推薦している程度で、「堕落論」で知名度があるにも関わらずあんま皆読んでいない。ぜひとも読むべき。新潮社の『堕落論』がオススメです。
そういうわけで、「白痴」。「堕落論」の直後に発表された短編で、まあ、堕落論を実践したらこうなる、みたいな話です。安吾は戦後になって「堕落せよ」と言いますが、「白痴」は戦時が舞台です。でもそこには堕落がある。そして、「続堕落論」では堕落は悪いことだ、と言っている。でも「堕落論」では「堕落せよ」という。すごい面白い。

「白痴」のあらすじ、近所に住んでいる白痴の女(人妻)が、ある日突然主人公の部屋に上がり込んできて、布団の中に潜り込んできている。しょうがないから、布団を二つ敷いて寝るけど、女は二分もしないうちに這い出していって、隅っこで体育座りし始める。寒い夜だから、主人公は心配して布団に連れ戻す。そして、別に襲わないから安心しろ、と言う。でも、二分もしないうちに布団から這い出して隅っこで体育座り。もう一度布団に戻して電気を消すと、また女は這い出していって、今度は押入れに立てこもる。
侮辱しているのですか、と主人公は怒りだすけど、どうも様子がおかしい。「女は悄然として、私はこなければよかった、私はきらわれている、私はそうは思っていなかった、という意味の事をくどくどと言い、そしてあらぬ一カ所を見つめて放心してしまった」。そこで、主人公は自分が警戒されているんではなく、むしろ愛情を求められていたことに気づく。まあつまり、1分2分も経ったのに体に触ってこないということは、この人は私を嫌っているんだ、という理論。それに気づいた主人公は白痴の頭を撫でて、肉体が愛情の全てではない、とか諭そうとしかけてやめる。
まあ、これは一部のシーンなんですが……、この白痴の女の人、可愛いでしょ!
男と並んで眠っていて、全く自分に関心が無いようだから(つまり性交渉をしようとしてこないもんだから)、嫌われてるんだ、と思い込んで布団から出てって、隅にうずくまるとか、なんというか健気で不器用な気の使い方で、とても愛らしいんですね。そして、男が彼女の頭を撫でてやると、「女はボンヤリ眼をあけて、それがまったく幼い子どもの無心さと変るところがない」。可愛いでしょう。なんとなく、守ってあげたくなる。チョロい男ならそう思ってしまいそうに、愛くるしく描かれているんですよ、この白痴の女の人。しかも、人妻。
この様子は、なんとなく昨今の萌えアニメの女の子の描写となんとなく似てるんですよね。シチュエーションが淫靡であるにしても、それでも健気さ、愛おしさというひとつの表現ということについては、非常に優れている。エロ漫画家の皆さんはぜひとも参考にしてくださいまし! と言えます。

そこから主人公の生活は変わっていくんですが、細かいこと見ていくと普通にレポートになってしまいそうなので、すっ飛ばしていきます。やがて空襲が始まって、主人公は白痴の女性を連れ出して逃げ出します。その途中、避難する人達の列から逸れて、小川のある方へ行き、小川に飛び込む(この時、水の中を歩く白痴の女性の描写もまたあどけなくて可愛らしい)。川を上っていくと麦畑があり、そこに辿り着いた途端に女は眠り始める。で、物語は終わるわけですが、その締めの一文「今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。あまり今朝が寒すぎるからであった」。
女を豚と言ってしまっている。というのも、前述に主人公の記憶として、ガキ大将に尻の肉を切り落とされながらそうとも知らずに呑気に歩く子豚の挿話があるんですね。そうでなければ豚である必要もない。他の短編では、こういう女のことを虫とか言っていたりする。

この豚という比喩が、つまり人間の動物性をうんならかんなら、とかいうことしょうもないことも考えられますが、正直、考えるべきことが多すぎて疲れてきたので、要するに、「可愛い」とはその程度のものに過ぎないということ。安吾は小林秀雄の「「花」の美しさというものはなく、ただ美しい「花」があるのみである」という言葉について、つまんねえことを言うな、とかけちょんけちょんに言うわけですけど、そういうわけですね。
だから、ここまで読んでくださった方々に失礼を承知でいいますが、今まで書いてきたことはまるきり意味のないことです。何故か、というのは「白痴」を読めば分かるのですが、上について言った「可愛さ」というのは装飾、ディテールに過ぎないわけです。もっと本質的な、安吾的なものはその前後にある主人公の思索にあると言っていい。彼が焼けただれゆく街を見る眼差し、女を見る眼差し、そこに宿る思索こそが骨頂なのです。たぶん。
「可愛さ」の陰にあざとさが垣間見えるのを嫌悪する人が居ますが、そんなものはアホらしいことで、可愛さにそれなりの特別な価値を認めているわけですから、そういう意味では自らにあざとさを課しているのと変わらないのです。つまり、「「可愛さ」というのはあざとさが無い方がより純粋である」という、あざとさ。そんな堂々巡りに意味は無い。
では何に意味があるか? とてもここが安吾らしいところだと思うのですが、この「白痴」に愛らしさを感じるところに意味があると、僕は思う。こういった方がいいか、白痴に愛らしさを感じる自分を発見すること。
まあ、つまり、白痴でもいいんです。可愛ければ。
でも、やっぱり白痴よりは、そうでないほうがいいでしょう? という非常に建設的な発想になっていく。そこから無限の荒野に身を委ね、孤独の旅路を突き進むこと。それが人間の歩むべき自由。

そういうわけですから、つまりキャラクター至上主義というのは、白痴の見せる幻想にしか過ぎないわけです。あな虚し。
でも、やっぱり可愛い方がいいに決まってる。可愛い物は正義なんだよな。
テクノウチ氏が言うような白痴の萌えキャラクターというのは、別に一向に構わないものだと思うし、逆に突き詰めていけば良いと思っています。「New Game!」という最高に可愛い漫画がありますが、あれは素晴らしい。可愛さをあそこまで究極に表現しようとしているものは、貴重であります。
ただ、それを消費するだけであっては、我々は本当に比喩ではなく、豚であるに過ぎない。そのことを忘れて、かわいい女の子に現を抜かすというのは、「事態はともかく彼が白痴と同格に成り下がる以外に法がない。なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか」、ということになる。
可愛い女の子を、豚にするか、それとも人の子にするか。
そういう抜き差しならない問題と考えたら、僕たちは二次元と呼ばれる存在をただの絵と呼ぶことはできなくなるだろうなあ、と思います。
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  1. 2015/06/11(木) 02:14:50|
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可児 珊士

Author:可児 珊士
大学生。
元音楽(合唱)部員。旧BASS。
ギターが欲しい年頃。
作家志望。
本陣:埼玉
カラオケ行くと声的な意味で別人化。

アイコンは柊氏より頂きましたΣd(゚∀゚d)

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