弐つの遊戯卓

【五年目】 毎日頑張ってやりくりしていきてます。物書き、音ゲーと合唱やってます。最近DTMとか始めました

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怒ってみた

毎日飽きもせずに、駅からパチンコ屋の前を通って帰ってるんですが、ここのところ、看板をぶら下げてぼーっと突っ立ってるだけの女の人がいる。まるで、売上が出せなかったので立たされています、みたいな佇まいで、かといってむすくれてるかというとそうでもなく、というか、命令されたからここにいるのよ、的気高さを感じさせる無表情。オリエント工業手製のマネキンかもしれないが、毎日顔ぶれが違うとあっては用意する側の財布も大変だ。
それでどういう思索が可能かと訊かれると、何も考えていないと正直に言う他ない。ただ、なんとなく不気味だけれども、宣伝の役目は無事果たしていると言えなくもない。否応なく目につくから。不気味だけど。

「怒りは、上品ではないが、決して下品なものではない」というのは坂口安吾の言葉らしいけれど、出典がわからない。ダレか教えて欲しい。全集が電子化されるまで、きっとわからない(あるいは全集を読み通すとかするか)。
ともかくもまあ、怒りは上品でも下品でもないと。いやいや、電車とかでキレてるおっさんみたら嫌になるだろ? 居酒屋で誰かが誰かにブチギレて説教してるのを見るのは嫌だろ? 人が見てイヤになるようなことは、すなわち下品ということです。というか、上品な怒りとは何ぞや。まるで見た人が、うっかり居住まいを正してしまいそうな、そんな甘美な怒り? そんなものはあるんですかね。「あなた、脇の下が臭くてよ!」と上品な貴婦人がブチギレているのを見ても、下品だなあ、と我々は思いますな。きっと。上品な振る舞いをする人ほど、キレているのを見ると下品さの度合いが上がる、とか考えちゃうと、上品なのも考えものです。
だから、この言葉は違う、ということを言いたいのではないことは自明の理の理の理です。もはや、理を構成するひも状の何かそのもの。怒っている人がダサくて、バカに見えるのは、その怒りの対象及び原因がちっぽけだからです。何かのドラマで、「何を悩んでいるのかで、その人間の器が分かる」と誰か(誰だったか思い出せないつらい)が言っているが、それと同じく「何に怒っているかで、その人間の器が分かる」というわけですね。
ま~~、「こんなふうに考える私性格悪い」とか、「いつまで経っても変わらない自分が~」とか、大層ちっちゃな器ですね~~~とか思わんでもないのですが、電車で赤ん坊が泣いてる程度でキレ気味のツイートをしたり、電車で席を取られる程度でキレ気味のツイートをしたり、キャラでないのであれば大したものですわ、とウンザリをするわけです。そういう怒りの浪費にすっかり慣れてしまっているわけですから、大切な怒りも「ダサいもの」としてみなされてしまう。例えば昨今の政治の状況とかに。

政治的な話題になるのは、こんな人里離れた場所にぽつんと建つ一軒家みたいなブログにとって好ましくないので、ネタバレをすると、これは枕でありました。枕が長すぎて、というか枕が書きたかったんだろう、枕と言っておけば何を言っても甘く見られるとか思ってんだろう、と思われても無理からぬ話で、まあその通りなのでございます。なので敢えて枕の結論を出してしまうと、「悩みを浪費すんな」「怒りを浪費すんな」、本当に切実な悩み、怒りに直面した時に後悔するのは自分だぞ。自分の卑小な悩み、怒りの経験で、目に映る現象を裁いていたら、後悔するのは自分だぞ。
うん、ぱっと見怒ってますね。怒れている。良かった。
伊藤計劃氏のブログをまとめた『伊藤計劃記録』の文庫版が出ているので読んでいるとちらっと言いましたが、この人、口が悪い。そして、怒るときは怒ってる。で、後でその怒りを冷静に分析している。あー、好き。
まあ、それを見て、安吾の上に挙げた言葉を思い出したわけです。こういう怒りはとてもごもっともであり、また、大した動機になるわけですね。創造的な怒りなんて言ったらすごい陳腐で死にたくなりますが、まあ、つまりそういうこと。哲学者に必要な感情は喜びと怒りである、と言いますが、ニーチェなんて怒って喜んで怒って喜んでの繰り返しですね。最終的には狂って死んでしまいましたが、なんともまあ、充実している人生です。

だから僕も怒ろうとしている。それも、上品でも下品でもない怒り。
でも、生まれてこの方温厚に生きることが楽に生きるショートカットであることを知ってしまっているので、まあ怒ったことが数えるほどしか無い。怒りなれていない男が、いきなりちゃんと怒れるのか? と訊かれれば、答えは否に決まっていて、何に怒ればいいのかさっぱりわからない。というか、そもそも怒ろうとして怒るものではなかろう、とケラケラ笑われるのが落ちなんである。
そんな折に、某社からお祈りメールが来て、怒りが湧いたのでした。
テメーはワイの何を見たんじゃーーーーッ!
体よく怒りの実験台にされた人事には不幸としか言い様がない事案。
まあ、それと同時に一次面接で落としてきた某社への怒りも高まるわけです。あんな面接で俺の何を知ろうってんじゃバカヤローーーー!という具合で。大体、合唱の指揮者をやっていた、という人間に対して「歌はどうしてたの?」なんて訊くことの無知さよ、野球でキャプテンをやってました、という人に「それじゃあ野球はどうしてたの?」と訊くのと同じくらい野暮なことですし、そう問われたキャプテンは「バカヤロー! 野球をやってたんだよ!」と言うでしょう。だから僕も(やんわりと)「バカヤロー! 歌をやってたんだよ!」と(もっと遠回しな言い方で)言った、けど落ちたという。
愚痴ですね! けどまあ、これはこれでいい! なんて稚拙な怒りなんだ! それでいい!
で、怒りを抑えた後に、ぷんすか怒りながら考える。面接の相手が有能ならば良いけども、あんまり冴えない人であったら、こちらの伝えたい自分の魅力を理解してくれないのも無理は無い。そうならないためにはどうすればいいか? 「バカでも分かるように」するにはどうしたらいいか!
それは自分を知ることに他ならなかった。とても単純。この単純な帰結のために、怒りの矛先にあてられた人事には申し訳ない気持ちでいっぱいです。
そういうわけで、自己分析。でました、自己分析。自己を分析します。自己とは何ですか? あなたとは何ですか?
そんな具合で自己分析というものをバカにしていましたが、「自己分析」というネーミングにあてられて、まんまと目眩ましをされていた自分のバカさ加減にも呆れてしまいます。まだ馬鹿正直に自己分析というものをやってしまった就活生のほうがエライ。彼らには内定をもれなくあげてほしい。
自己を分析することは、不可能です。仮に出来たとしたらどうなるか?
それは、伊藤計劃が『ハーモニー』の結末で描いています。この一冊はマストです。要するに、自分はこうしてこうしようとするとこうなるからこうすればこうなる、ということを一瞬でわかって、それを実行するとしたら、それは何なんですかね? 
来週出さなきゃいけない課題がある。自分はぐうたらな人間だからきっと寸前までやらないだろうが、寸前までほったらかしておくとやらないであろうから、今やらねばらないが、どうしてそれができないかといったら、それはゲーセンに行ってしまうから、またはパソコンでぐうたらネットサーフィンをしてしまうからだ。じゃあ、それらをしなければいいんだ。そういうわけで、ゲーセンにもいかず、パソコンでネットサーフィンをせずに、課題をしました。
こんなの、人間かよ! 自己を分析しきった人間の末路かよ!
これはテキパキ人間とは違います。テキパキできる人間というのは、来週出さなきゃいけない課題がある→やろう、と直で行く人種のことですから。自分のことが分かる、というのはこういうことです。ゲーセンに行っちゃうとか、パソコンでぐうたらしちゃうとか、そういう理由が分かってても、どうしようもできない、そういうのが人間です。自己分析というのは人間をやめようとする試みのことを言うのです。というようなことは、野崎まどさんの作品で言われていたりする。
だから、自己分析というのは決して自己を分析する行為ではないということを念頭におかなくちゃいけない。
では何か? ありていに言ってしまえば、自分の「社会的役割」を探求することであり、また「才能」の話です。
はっきり言ってしまうが、僕には才能がある。わあ、言っちゃった。でも、人間って何らかの才能があるんです、必ず。才能はある。それを探す努力もせずに、周りだけを見て「俺には才能がない」と言う人は、全然自分を見ていないわけです。自分を突き放しているわけです。僕の尊敬する作家いわく「己の才能を、地の果てまで探しに行け。行くんだよ」。
それが本当に自分のことを探すことに他ならない。でも、「才能の探し方」だなんてキャッチよりは、「自己分析」のほうが飛びつきやすいのは確かですね。普通、人間自分が才能を持っているなんて思ってないですし、持っていると思っている人は勘違いしているわけです。僕は勘違いしているかというと、している。でも、それと同時にしていない。矛盾はないと思う。

なーんかめっちゃ長くなっちゃった!
要するに、怒りを原動力にして、そういう才能を言語化する試みをしているわけです。ナンセンスな言葉で言えば、「自己分析」と呼ばれるものだ。でも、そんな呼び方、クソクラエーーー! 自己を知ってしまった人間は人間じゃなくなくるんだからな! 自己というプログラムを走らせるだけのような存在なんだからな! だから、自己分析とやらで自己を知った気になってる奴は、どこかの誰かさんのことを知った気になっているだけっていう話! そんな幻想に突き動かされるような人間になるなーーーーッ! 
少なくとも僕はなりたくない。
仮定された有機交流電燈のひとつの青い証明として、僕という現象を解明する、冷静で科学的な試みをしようというと思い立ったわけであります。
悔しいからね。祈ってもらうのは。
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  1. 2015/06/13(土) 20:48:17|
  2. 尋常の日記・雑記
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可児 珊士

Author:可児 珊士
大学生。
元音楽(合唱)部員。旧BASS。
ギターが欲しい年頃。
作家志望。
本陣:埼玉
カラオケ行くと声的な意味で別人化。

アイコンは柊氏より頂きましたΣd(゚∀゚d)

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