弐つの遊戯卓

【五年目】 毎日頑張ってやりくりしていきてます。物書き、音ゲーと合唱やってます。最近DTMとか始めました

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赤ずきんちゃんと香辛料

 金曜ロードショー「おおかみこどもの雪と雨」をみた。二度目。
 「サマーウォーズ」で消えたと思った不穏さが、ジャックポッドと言わんばかりに再到来している。最初からずっと不穏がつきまっていた。心がざわざわする不穏さ。雪のモノローグのせいかも知れない。
 この映画にネタバレするようなネタは無いので余裕でかましていきます。

 それにしても賛否の多い映画だ。時かけとかサマーウォーズとかの素直さとは真逆で、家族という共同体への追及が増した分、受け付けない人が出てきたんじゃないかな。それか、花の母親としての姿があまりにも強すぎ、見ている人にそういう親の姿を強要しているように思わせるか。
 構造としては、「人と獣のハーフの子が生まれたらどうやって育つの?」という仮定のもとでストーリーが進んでいく。子育てを当たり前のものではなく、人それぞれ特殊なものであることを伝えたいと監督が言っているが、それとはまた別でケモナーとしての妄想力を爆発させていった感じが、チラチラどころかモロに見える。雪のパンツもモロに見える。最初で母の物語って言ってるけど、やっぱりこれは子の物語だよ。「親がなくとも子は育つ」ではなく、「親があっても子は育つ」。坂口安吾だ。
 家族という最小の共同体単位へと引きこもったはずなのに、ずるずると社会へと引きずり出されていく人間性と、自然の中へと分け入っていく動物性。育っていくにつれて、雪と雨の生きる向きが入れ替わっていき、衝突する。きょうだい喧嘩で、雪が敗れて泣いているシーンは物悲しい。女の子として生きなきゃ、といつの間にか内面から自分を社会に結びつけていく雪と、自然という世界に自分を見つけた雨と。ラスト、立ち去る雨にハナは「あなたに何もしてあげられてない」と叫んで、雨は息を呑んだが、これはそのセリフによって雨自身が母親である彼女に、何も残さなかったことに気づいてしまった動揺なのではないかと思う。なので、崖を駆け上り、朝日をその身に浴び、最高の勇姿を見せつけたのだ。僕は親になったことはないので知らないが、親であるという細田監督が夢見ている、「子の独立」のひとつのモデルなんじゃないかな。
 さんざっぱら迷惑かけておいて、山に入るんかい親不孝じゃ、というような人もきっと居るだろうが、ここでもやっぱり坂口安吾で、「親切をするならオオカミに食われる覚悟でやれ」。親が子を育てるのは、身も蓋もなくいってしまえば「親切」なんだな。それで花自身も非常に満足気なあたり、立派な親です。子育てのためにあらゆるものを捨てろ、と言うのではなく。
 それにしても、草平は偉大だ。雪の正体がオオカミであることを黙っていたのは、それがこれっぽっちも雪という女の子の本質とは関係がないことを、了解していたからなんだろう。あまりにも理想主義に思われそうなシーンではあるけれど、理想だからといってそれが何だ、という話だ。オオカミ、だから何だ。そういう告白に対して、何の衝撃も同情も軽蔑も示さない、「だから何だよ」とでも言わんばかりの表情……あのシーンは本当に良い。その後で「だからもう泣くな」、と小6に言わせるのは、理想主義どころの騒ぎじゃないが、別に良いじゃない、そんなのは大した問題でもない。

 後半のカタルシスは、前半通過してきた不穏さのお陰でなせるワザである。
 あの不穏さは……生きることへの不安、そのものだ。あんな小さな子どもが、成長していくという不安定さと不穏さ。あの不穏さは、なんだか近代的のものな気がする。柄谷行人が『日本近代文学の起源』で言うように、子どもは近代になって作られた概念である。中世等で子どもは「小さな大人」だったし、子どもが死んだらまた生めば良い、という考え方が普通だった。「アサシンクリード2」のDLCでカテリーナという女王が出てくるけど、子どもを人質に取られて門を開けないと殺すと脅されたのに対して、股間をあっぴろげて「またここから作ってやるわ」とか挑発する。パンツの色は白だったと記憶している。これは世界史マニアの間では有名な話らしく、一応史実らしい。まあ、子どもというのはそういうものだった。が、近代に入って学校というものが発足すると同時に、大人たちという社会が守り育てるべき「子ども」というものが誕生した、というのが、まあ柄谷さんの指摘したこと。
 社会の支援を全て断り、山に入って全て自力で自分の子を育てていこうとする花の姿は、ある意味では近代以前の子育ての姿と重なるのかもしれないが、それだとこの子どもにつきまとう「不穏さ」という、近代的な印象と衝突する。周りの人と関わらないようにして、人目につかないところに引きこもったところで、結局社会に取り込まれてしまうのは、当たり前といえば当たり前過ぎる帰結だ。一旦、近代から抜けだそうとしたものの、結局雪と雨を学校に進学させたことに鑑みると、これを「理想的な信仰すべき母親像」として批判するのはちょいと早計な気がしないでもない。

 正直に言って僕はこの映画好きなんだけど、いまいちよく分からない。考え過ぎな気がしないでもなく、もっとシンプルに観るべきなのかも知れない。だけど、あの不穏な感じ……雪が積もった山を、駆け抜けていくシーンの、あの「時かけ」と同じような空の色が、とにかく不穏でならなかった。だから、今日この映画を観るかどうか悩んだんだ。結局観たけど。
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  1. 2015/07/11(土) 00:47:29|
  2. 尋常の日記・雑記
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可児 珊士

Author:可児 珊士
大学生。
元音楽(合唱)部員。旧BASS。
ギターが欲しい年頃。
作家志望。
本陣:埼玉
カラオケ行くと声的な意味で別人化。

アイコンは柊氏より頂きましたΣd(゚∀゚d)

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