弐つの遊戯卓

【五年目】 毎日頑張ってやりくりしていきてます。物書き、音ゲーと合唱やってます。最近DTMとか始めました

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突きつけられる「物語」

 世には不幸なネタバレが溢れすぎている。私は是非とも健全で幸福なネタバレをしようと心がけている。
 「パトレイバー1・2」と「インセプション」のネタバレがある可能性があるので嫌な人は注意してください。

 劇場版「パトレイバー」「パトレイバー2」を観た。
 伊藤計劃が”世界精神型”の悪役と呼んだ帆場と柘植の登場する作品だけに、非常に良かった。「ダークナイト」のジョーカーと通じる悪役の構造を、「ダークナイト」登場前から称揚していた彼の慧眼には感服しっぱなし。映画というジャンルで勝てる気がしないというか、そもそも勝負する気にならないというか、ほとんど映画入門のガイドに伊藤計劃記録を使っている感じなので、師弟のような関係性であると思っているけど、ここまでくるとキモさしか感じないので、まあ「観てみようかな」→「わあすごいわこの人の言ったとおり」程度のものであると定義付けておこう。
 1で醸した後藤さんの有能っぷりが、2で更に全面に出てたけど、映画を観ていけば観ていくほどおっさんが格好良く見えてくる。いや逆だなあ、格好いいおっさんが好きになってくる。
 80年代の夢想した20世紀末、レイバー、バビロンプロジェクト。でも、あれってなんかもう帆場とか柘植とかいう悪役を、効率よく運用するための舞台装置だったようにしか思えないんだよな。徐々に発展していくテクノロジが、逆手に取られて悪用されるということは、まあ別に誰だって想像がつくだろうけど、そのテクノロジーそのものによって「悪」を表現する、「悪」そのものが目的であり「商品」である、ってことはなかなか尋常の発想ではない。押井監督のシナリオは世界観が先にあって、そこからストーリー、キャラを作り出していくそうだが、あの世界で「悪」を表現して見せつける、という試みは気持ち悪いほどにマッチングしてる。
 特に、2は「戦争」というシロモノについて扱っている。「もう戦争は始まっているんだ」という荒川のセリフ、「このままだと戦争になるぞ」と会議室で慌てる上層部のセリフは印象的だ。そんな上層部に対して、後藤が「だからもう遅いと言ったんだ!」と怒鳴り散らすシーンはすごい、特に表情が。「SHIROBAKO」で木下監督が「ブサ顔が良い」みたいな風に語っていたけど、可愛い女の子のブサ顔よりも、冴えないおっさんのブサ顔のほうがずっとグッと来ますよ。「これはもしかしたら戦争ではないのか?」と気づいた時には、もう既に始まっているもの、よくわからないけど、なぜだかそうなってしまっているものが戦争だ。柘植は「そういう状態」を東京に作りだした。「戦争」というものを、市民に感じさせるために。「不正義の平和と正義の戦争」、戦争を他に押し付けて仮初めの平和を満喫している……これはまるきり「スカイ・クロラ」にも通底するテーマであり、更には『虐殺器官』にも繋がっているテーマにもなってしまっている。日本が平和でやってこられたのはそういう混沌を他に押し付けてきたからであって、その混沌のアウトソーシングによって天秤が吊り合ってきたからに他ならない。それを、「平和ボケした」人々の肌に直接突きつけた柘植という男は、逮捕された折「どうして自決しなかった?」と松井刑事に訊かれ、こう答える。「未来を見ていたいから」。必要悪とかそういうレベルじゃない、確かに許されざる悪なのだが、柘植に宿っている美学というものはそういう善悪をすっかり突き抜けてしまっている。、
 非常に面白かったけど、非常に眠かった。繰り返しの映像の中で、滔々と押井特有の長ゼリフを聞いていたら、それはもう眠ってしまいます。寝なかったけどね。面白かった。

 映画好きの友達に「ダークナイト」がすごい良かった、と言ったら同じノーラン監督の「インセプション」を勧められたから観たが、これもすごい。どんでん返しの連続で、一本糸を引っ張っただけでパタンパタンパタンパタン……二時間半の映画だったけど、一瞬にしか感じなかった。独占企業の後継者に「企業を潰す」という思想を、夢を介して植え付ける(インセプションする)という話だったが、このシナリオの巧緻さがヤバくて舌を巻いた。今まで俺がやってきたのはままごと以下だった。
 しかも、その思想の植え付けを何で行っているかというと、夢の中で「物語」を演出することによってである。どんな夢のプランでいくか、つまりどういう物語を演出していくか、ということを主人公たちのチームは散々議論している。「和解」が一番心に訴えかける、よし、じゃあそれでいこう、と決まるシーンは、まるで作家の脳内会議のようだ。そうして演じられる物語というのは、不仲のまま認知症となった父親は息子である自分の顔も認識しない、ところが夢の中では健全な父親が語りかけてくる、というもの。お前を気に入らないと言っていたが「それはワシのマネをするからだ」、「自分の道をいけ」。そうして、彼らは和解する。「夢」の中で構成された物語に沿って息子は行動し、その最後にそういう結末を迎えるわけだが、その「そういう考えを抱くように」作られた(捏造された)物語によって、あたかもその夢の主が自発的にその考えを得たように思い込むことが「インセプション」なのである。これは、「MGS2」のS3計画に通じるところがある。雷電はラストシーンで自分をこれから見つけていく旨のことを言うが、それでも結局のところS3の思惑から逸脱できていないあたりに、この作品の突きつける絶望がわだかまっているのだが、「インセプション」はそれがストーリーの主軸にあるにせよ、結局のところ主人公たちの人生ドラマを演出する装置としてしか機能していないところが非常に面白い。息子と父親の和解のシーンは、感動的である。それが「作られ」「捏造された」物語であると分かっていても、何故か心を突いてしまうような何かがある。生きている以上誰にでも実装されている「共感」というものに訴えかける何かがあるんだろう。だけれども……それは結局のところ、「物語」でしかないんだ。その感動や和解によって植え付けられたのは「捏造された」思考であることを、観ている人は分かってしまっているのに、それなのに思わず感動してしまう。そんな自分の感性に対する疑問を喚起してくるのだ。もし、あの和解のシーンで素直に感動してしまい、そういう疑問を抱かなかった人がいれば、その人は「物語」の格好の餌食になってしまうだろう。この映画は、そういう批評性を持つことの重大さを、ひしと提示してみせたのだ。

 ああ、疲れた……こんなに書くことになるとは思わなかった。
 映画という媒体は、これだけ壮大な物語を二時間かそこらでまとめてしまうので、こう言っては何だが非常に消化効率が良い。本とかTVアニメは、否応なしに時間がかかってしまうけれども、映画はきっちりと時間内に終わるので鑑賞しやすいし感想も量産しやすいし、シナリオの作り方など非常に参考になるところが大きい、それに何度でも観ることが容易い。
 よいものだなあ。
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  1. 2015/07/17(金) 02:15:53|
  2. 尋常の日記・雑記
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可児 珊士

Author:可児 珊士
大学生。
元音楽(合唱)部員。旧BASS。
ギターが欲しい年頃。
作家志望。
本陣:埼玉
カラオケ行くと声的な意味で別人化。

アイコンは柊氏より頂きましたΣd(゚∀゚d)

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