弐つの遊戯卓

【五年目】 毎日頑張ってやりくりしていきてます。物書き、音ゲーと合唱やってます。最近DTMとか始めました

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終わりなき間断の映像に

 『カリオストロの城』を今更になって観た。
 アクションシーンとかは面白かったけど、ルパン三世ってキャラクターがあまりにも立ちすぎ、あまりにも安心して見れてしまうだけあって、「いつ終わってくれても構わない」ような映画だった。作品というのは基本的に終わらないことを目標に据え、終わることによって失敗するものであるけれど、面白さに運ばれて最後まで辿り着いたような具合だった。観方が変わったせいかしらん。
 でもやっぱり、名作なことには名作で、小さな万国旗を広げるシーンであるとか、「奴は大変なものを盗んでいきました」という銭形の有名な台詞とか、印象的なものは心に残る。何か一つでも残ったのなら、それはもう製作者の大勝利だから。

 「いつ終わってくれても構わない」映画に対置されるべくは「いつ終わるのか分からない」映画だろうなあ。そしてそれは戦争映画だと思う。『プラトーン』とか『ブラックホーク・ダウン』とかいう作品には、兵士として敵と戦い生き延びる、以上の目的が無い。というか、そういうものが見えないように描かれている。いつ終わるのかわからないし、もしかしたら永遠に終わらないのかもしれない、やむなく最終的には殺されるのかもしれない。しかしながら、とりあえず当面生きるために銃を握り、取り憑かれたように敵兵を映し出し、その破壊に僕達も当座のところは目を凝らし続ける。生きる意味とか、ゴミクズのように散る命であるとか、そこから学ぶ教訓だとかいうものはその映像には主張されず、とりあえずの映像が流されるだけである。『プライベート・ライアン』の有名な虐殺シーン、人間の尊厳無く破壊されていく身体と、ゆっくり緩慢にナイフが突き立てられていく身体、双方に差異などなく、安吾の言うところの偉大なる破壊、愛すべき破壊があるばかりだ。
 戦争映画の「いつ終わるのか分からない」、「いつ始まったのかも分からない」、これって丸っきり僕ら人間生物の生命ではないかと思う。戦争が生命を迸らせるとかいう話をしているのではなく、戦争映画が生命のメタファーとして機能している。戦争には始まりと終わりがあるが、それは歴史上の話であって結局のところ後付の情報に過ぎない。僕達はどうしても、今目の前に転がされた状況からしか、始まることができず終わることが出来ない、そしてその両方に失敗し続けている虚しく孤独な存在なのだ。それを意識や、歴史や、記憶という諸装置によって穴埋めしているに過ぎない。
 だから、基本的に終わりを求めてはいけないし、始まりを求めてはいけない。そういう地平から作品を組み立てなければ、ただ説明に終始する作品となってしまうだろう。説明口調には、僕達と語られる事象を切り離してしまう作用があるが、これはあまりにも危険過ぎることだ。
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  1. 2015/08/25(火) 23:40:35|
  2. 尋常の日記・雑記
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可児 珊士

Author:可児 珊士
大学生。
元音楽(合唱)部員。旧BASS。
ギターが欲しい年頃。
作家志望。
本陣:埼玉
カラオケ行くと声的な意味で別人化。

アイコンは柊氏より頂きましたΣd(゚∀゚d)

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