弐つの遊戯卓

【五年目】 毎日頑張ってやりくりしていきてます。物書き、音ゲーと合唱やってます。最近DTMとか始めました

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狂気を笑い飛ばす狂気を

 先日『サイコパス2』を見終えて、ずっと頭の中で放置してたんですけど、ようやく最近になって書く気が起きたので書こうと思います。一応、物語の中枢部分について言及するので注意。

 シビュラシステムが法の番人として存在する社会。普通に考えて免罪体質が存在するとか、欠陥品にも程が有るけど、人間の手によるシステムである以上、必ず「例外」は伴ってくる。まぁ、そうでなければサイバーパンクとしてSFが機能しないので、そういう要請が出てきます。
 1期が「天然」の免罪体質、2期は「人工」の免罪体質。圧倒的に制御された社会の中で「天然」もクソも無いと思いますが、レトリックとしての天然と捉えてもらえたら良いですね。いずれにせよ、「シビュラ」という社会(法)に認知されない存在というわけであって、しかもそれが犯罪と結びついている。その前提からして、社会の構成員として認められているはずである我々にとっては、是非ともそうであってほしい設定ですよね、これ。社会からはみ出た者を、なんとなく絶対の罪人として見たがる我々の心理としては。
 ベンサムの「パノプティコン」がモチーフとして幾度か登場する。劇中で使われているのは、「健常な市民」と対置する「犯罪者」を発見するための監視機構ということでですね。実はもともとベンサムの発案したこの監獄って、「最大多数の最大幸福」からはみ出たマイノリティを閉じ込めるための施設だったんですよね。つまり、犯罪者、倒錯者という社会のはみ出し者。ベンサムは社会というものの構造上、必ずそういう連中は出てくるのは仕方ないので、隔離してしまおう、できるだけ効率よく、経済的に、コスパ良く、っていう理念のもとに、この一望監視システムを考案した。その歴史を分析したのがミシェル・フーコー『監獄の誕生』というわけだけれど、サイコパスによる「執行」の禍々しさって実は全くパノプティコン的ではない(というか、サイコパスの数値が人の話を聞くだけであっさりと変わるとか、シビュラってあまりにも恣意的に過ぎないか。まあ、その「装置」からして明らかな恣意の介在を感じさせるデザインではあるんだけども)18世紀末から、ヨーロッパでは処罰の方法は、徹底的にコード化されていき、「こういう犯罪にはこういう刑罰を」という対応が出来上がってくる。それまでは、あまりにも司法の恣意や権力の偏りによって、祭りのようなえげつない死刑(四肢を縛って四頭の馬で引っ張り身体を引き裂く刑とか)とかそれに伴う事件とかがあったりしたから、人権に悖るじゃないか、ということでどうにかしようと改革者達は思った。そして、「反人間的な人間を矯正していく」ような処罰の制度が整えられていくことになる。しかしながらシビュラ下の社会では、犯罪と処罰との関係性があまりにも直結しており、場合によっては即興で処理される。犯罪者達は、その場で自身の叩き出す犯罪値によって、その場で場当たり的に処刑されたりする。逮捕して、裁判をして、犯罪の度合いに見合った「矯正」を行わないで、殺す。これでは、「法」の執行ではないのでは? パノプティコンは監視システムのモデルではあるが、その目的はあくまで犯罪者の懐柔であり、内面から「法」に従わせるための機構である。それをしないって、「法」としてどうなの? という話になる。
 その問から導き出される構造、それはシビュラの法の下にある社会が「監獄」であるということだ。そうして処理される犯罪者の身体は、いや、犯罪者が処刑されるという事実自体、同じ社会に暮らす人々への懲罰に等しい。そして、人々はいつでも見られているという意識のもと、内面から調教されていく。そうして、「健全な市民」として「生産」される、それが「サイコパス」という世界だ。1期はその檻の破壊を試みた話である。2期はその支配者たるシビュラの定義を問うた話である。
 2期の評判が悪かったので、あまり期待しないで観ていたのだけど、全然悪くなかった。面白かった。
 ただ、ヤバイくらい派手にズッこけてる。ズコーーッ! と。それはそれで面白いのだけど、そういう問題ではないですね。既に長くなっているので、簡潔にまとめますか。
 最終話に於いて、「集合的サイコパス」を裁けるようになった、それによってシビュラは自身を裁くことが可能になった、という解決が導かれますね。そして、シビュラは自身を構成する脳みそのうち、いくつかを処理する。「こいつらを殺すことによって、我々のサイコパスは安寧に保たれる」という風に言いながら。そして、同じく集合体であるカムイは東金によってドミネートされる。これによって、集団的サイコパス、つまりその人の所属する「集団」のサイコパスを測れるようになるわけなんだけど、それによって自分は悪くなくても所属する集団如何で自分も裁かれる可能性が出てくるようになった。だから、そのせいで今後大虐殺が起こるかもしれない……それでも良いのか? と局長が朱に問う。そうはなりません、と朱は言い返す。
 うん。そうはならないんだと思う。だって、結局何も変わらないし、何も終わったわけではないから。シビュラ自身が自身のサイコパスをクリアにするため、自らの一部を排除したのと同じように、集団がサイコパスをクリアにするために、自らの一部、つまり成員を排除することで集団的サイコパスがクリアに維持できるなら、その後やっていくことに変わりはない。その「排除」が公安にアウトソーシングされるだけの話であって、システムに変更があっても、行われることに変わりはないんじゃないかなぁ。カムイは有機的な集団であったわけだから一発で葬れたわけだけど、人の集団はあくまでも機械的な繋がりでしか担保されない。有機的な人の集団が実現していないのに、集団的サイコパスが使えるようになったところで、結局何も変わらないんだ。朱が最後、カムイに同調していたのは、あくまでカムイを裁けるようにするためだった。自らに宿る「法」というのは、そういうことだ。……だから、それ以外は何も変わらない。「法」というものが、少しだけ変わったに過ぎない話だった。
 そして、霜月監視官の無能っぷり、小市民っぷり、奴隷っぷり……あまりにも朱と対比させすぎていて、笑ってしまいそうなレベルなんだけども、シビュラの真実を知った時に拍手喝采して「素晴らしいです素晴らしいです」と連呼してるのを見て、本当に笑ってしまった。無能可愛い、という新たな言説が生まれそう。「この社会が大好きです」。あまりにも強烈なアイロニーである。私、この監獄が大好きです。だって、真っ当でいる限り生きていくのに不便はないし、身の安全だって保証されているし──。
 自称「平凡な人々」の、露骨なパロディである。霜月監視官の渾身のギャグを笑えなかった人のために解説しよう。彼女は、クリニックに人質として拘束された被害者たちが加害者と認定されてドミネーターに虐殺されていく、ああいう風景を肯定していのである。そのシーンを見て、「グロをやりたかっただけだろ」と思った人はそう思っておけば良いんだろうが、「俺達は被害者だ!」と叫びながら、「法」の力によって肉片と化した人々を見て、その視覚的なグロにしか価値基準を置くことが出来ないような見方は推奨しない。別に「法」は味方でもなんでもないことが、そこであからさまにも過ぎるほど描写されている。司法の絡む事件の当事者となってしまえば、被害者と加害者という立場は実にあやふやなもので、容易にひっくり返ってしまう不均衡を、このシーンはよく示しているわけだ。「法」が私達を守っていることは、実は自明のことでも何でも無いし、何故かその「法」に殺されることもあり得る。そんな「安全」な社会を妄信的に礼賛する人々のパロディ、霜月監視官。すごい笑える。
 つまるところ、シビュラシステムは、全然ダメダメなわけである。「法」の機能として、16、17世紀の身体刑中心の司法制度に完全に逆戻りしている。というか、「真理」を明らかにしようとする態度では、その時代にも劣っている。数値が絶対化されているが、数値は真実を全くこれっぽっちも語っていないし、一元的なデータで人を裁くことに安住している人々の恐ろしさよ。その社会に安住している人々の恐ろしさよ。『サイコパス』にはディストピアにふさわしいだけの絶望と狂気が蔓延している。その社会で巻き起こる事件の面白さ、それを解決していく格好良さはあるが、結局のところ、その実態は狂気なのである。
 サイバーパンクはどうしてもディストピアの相貌を帯びる。身体をテクノロジーで伸張するということは、テクノロジーに身体を外注することと同義であり、身体への責任を手放すということだ。責任から解放された人々が、どこか狂気に彩られて見えるのは、今の所身体を自らの責任で引き受けざるを得ない我々にとっては当然のことなのであり、また20年前の人々も、今の我々に同じような狂気を見出すかもしれない。
 狂気を制するには、狂気を以てするしかない。「社会を愛する」人間を、笑い飛ばす狂気を。
  1. 2015/08/10(月) 20:04:03|
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知の圧力、縮む脳みそ

 近況を素直に書いてもとてもつまらないので、周縁部分を書こうと思います。中枢部分はデリケートというか、まだ誰にも教えたくないのです。

 夏真っ盛りです。冷蔵庫でチョコを冷やして食べるのが、サイコーにクールで良いのですが、それ以外はなにもいいところがない。
 せっかくの夏なので、ずっと読みたかったM.フーコーの『性の歴史 知への意志』とか『監獄の誕生』とか読んでます。それと、予告通りニーチェの『善悪の彼岸』も確保。先日出たばかりの新訳『ツァラトゥストラ』もポチってきました。もうサイコーですね。誤用だとわかった上で言いますが、知恵熱がひどくて部屋の気温が3℃は上がってる。
 ところで、この間暇だったので池袋ジュンク堂行ってきました。4階が確か思想書フロアだったので、うろうろしてたんですが、キルケゴール全集とか、ヘーゲル全集とか、あの重さで床がぶち抜けそう。レンガですよ、あれは。あの厳つさ、荘厳さ。哲学って触れるまでは意味の分からんことを延々と書いているだけだと思ってましたが、いざ読んでみると(ニーチェだけだが)至極、論理的に書かれてるんですよね。全ての学問の祖というだけあって、非常に実証的。だからといって、皆に読んでほしいとは思わないけど。
 で、流石に知恵の圧力に耐えられなくなって今度は文芸書フロアをうろうろしてたんですが、河出文庫がヤバイ。何がヤバイって、ドゥルーズとかフーコーが、文庫で読めちゃうって。ちょっと立ち読んでみたけど、読めちゃうんだけど。訳がつい四、五年出たばかりのばっかりで、すごい読みやすくなってる。それが千円ちょっとで買えちゃう。頭がオカシイ……、普通は4,5千円するんだぞ……。
 と、驚愕したものの、その時は400円しか持ってなかったので、何も買わずに帰宅。『アンチ・オイディプス』と『ミル・プラトー』は絶対にいつか買う。
 ところでフーコーを読んでますが、すごいニーチェみたいだ。我々が普段何気なくそれが当たり前だと思い込んでいる事柄を、常識を、執拗な手つきでバリバリと剥がしていくような、正にメスを入れるという比喩がぴったりな分析。そんでもって、非常にワンセンテンスが長いが、確かな狂気を感じる文章(文体?)。主に移動中の電車で読んでるんですが、3ページくらいで寝そうになります。文章が頭に入ってこなくなる。正に這いつくばるようにして読んでますが、いつ読み終わるか分からんし、理解出来てるのかも分からない。これが意味のあることなのかも分からない。分からないことだらけでげんなりしますが、それでも文章を読んでる時くらいしか落ち着ける時が無いので、なんとも言えないなあ。
 お陰様で、フィクションの供給が映画だけ、という状態。活字にまみれ過ぎた結果の活字中毒状態。
 一応アニメも見てますが、TVアニメってやっぱり基本的に面白くない。映画の見過ぎかしら。なんだかもったいぶってる風に見えちゃって、全体的に。ミルキー三話の法則と言って三話から面白くなるものもあるらしいが、一話とか二話っていう最初のシーケンスを人物紹介とか世界の描写に当てざるを得ないから、最初があんまり面白くなくなっちゃうのか。テレビで放映することを前提に設計されてるから、ドラえもんとかクレヨンしんちゃんとか、あるいは日常系のギャグ漫画とは非常に相性が良いんだろうけど、ストーリーテリングにこれほど向いてないメディアも珍しいというか、観る側に忍耐を強いるよね。耐えることを強いない作品なんてロクなものが無いと思うけど、それとはまた別のベクトルの忍耐。投資的な忍耐。特に2クールアニメだと顕著。物語が終わりに向かって転び始めるプロットポイントに達したら、後は勢いで観ることができるけど、それまでは悶々と過ごさなくてはいけないのが欠点だと思う。これはまあ、TVでやることの宿命だと思うけど。

8月にはもう一本、作品を書きたいと思っている。
思えば、去年の夏にも一本仕上げていて、その出来の酷さにゲロを吐きそうになったわけだ。
あれから一年経ったけど、その呪いに今も苦しんでいる。皮肉な話だ、なんて言う立場ではないけど、しかしやっぱり皮肉だよ。
  1. 2015/08/07(金) 01:27:51|
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With love, from You

「物語だらけね、街は。人間を支えてくれるイメージや物語でいっぱい。みんな、物語を信用できなくなって、苦しくなーれ」

 長谷敏司『あなたのための物語』。
 内容は余命を宣告されたサマンサ・ウォーカーが、死にそうになりながら人工人格(もっとちゃんとした原理があるけど割愛)である《wanna be》と対話するだけの話。ネタバレですが、サマンサ・ウォーカーは死にます。最初の数ページでそう言ってますけど。
 病というメタファーは、この国において結核から始まり、今では癌となっている。癌、という不死の病のメタファー。過去に於いて、結核が治療可能になった途端に、結核が不死の病のメタファーとしては駆逐されたように、癌という猛威も治療が可能になれば、我々は癌を暗喩として使わなくなるだろう。
 けれども、不死の病という表象は消えないで残り続ける。『あなたのための物語』に於いて、不死の病という役割を負ったのは「自己免疫疾患」だった。人はいつまでも物語に、タイムリミットを背負わせ続けるんだろう。だって小説は、終わらなくてはいけないから。けれども、基本的に「書かれたもの」って永遠性を求めるでしょう。いつまでも残るでしょう。三大宗教の聖典がいつ書かれたものかを考えたら、そしてこれからも残り読まれ続けることを考えたら。でも小説は、必ず終わることによって、必ず失敗しなくてはいけない。
 我々だってそうだ。我々というテキストは、いつか死という終わりを迎え、生きることに失敗する。これほどの物語を綴った後に、サマンサ・ウォーカーは動物のように尊厳なく死ぬ。物語として。我々はそれを目撃しなくてはならない。
 人工人格である《wanna be》は、物語が物語足りうる理由を「言語を奪う」ものだからだ、と言う。サマンサ一人の言語を奪うために、私はあらゆる手段を用いることができる、と。
 それは本当に物語的だ。ストーリー、筋道、プロット、伏線、波瀾万丈、手に汗握る、そんなものはここに存在しない。存在する必要もない。ただ静謐のうちに「あなた」へと肉薄する、「物語」。共感を求め、感情移入を強要し、共通感覚の刷り込みを行う、街に溢れる「感動的」な物語ではない、「あなたのための物語」。
 ありえないくらい退屈で、つまらない、「恋」の話。
 我々は素通りし続ける。そういう、退屈で、つまらない、物語を。
 我々は、そこに狂気を見るかもしれないから。極度に突き放された、この世のものとは思えない何かを見るかもしれない。自分の身体を巡る大いなる違和感に苛まれるかもしれない。
 ……けれども、根本的に、誰かのために書かれた物語など存在しない。
 それは、「フィクション」である。テキストによって編集された「わたし」という「フィクション」。フィクションのためのフィクションは、果たして「わたし」の身体の代替となるべきか。
 サマンサ・ウォーカーは提案する、「わたし」と「あなた」を同居させよう、と。けれども《wanna be》は拒絶する。「わたしは死のうと思います」。身体を持たぬ《wanna be》にとって、自らの消失はフィクションの消失と変わらない。自らのテキストを閉じることによって、物語として誕生し、フィクションとして消失する。そこに宿る永遠性は、人間のものよりもより純粋だった。
 そして、このことは「言語を奪う」ための物語という装置を、一般的な解釈に押し留めるのを拒絶している。つまり、我々の言語を奪うのは、「死」という惨たらしい現実によってのみである、という絶望的なる語りにおいて。我々を生から引き剥がすように、じりじりと、或いは一息に言語を剥奪するのは、「終わり」のリアリティにおいて他ならない。何故なら、物語とは必ず終わるものであるから。「フィクション」とは必ず終わるものであるから。メタ物語的な物語のみが、「フィクション」を脅かす。わたしというフィクションを。

 というわけで『あなたのための物語』を下敷きに適当に書いていこうと思ったら、こんなものになってしまった。支離滅裂にも程があるから、一応まともなことを言っておこう。
 ITPという技術は、脳の擬似神経として機能し、他人の人格を自らに投影することができる。そういうわけなので、自分の人格を自分で再生することによって、自らの人格をも機械でアウトソーシングできたりする。だから、身体的な苦痛を「わたし」自身が受ける必要がなくなるのだ。
 これって伊藤計劃『ハーモニー』と繋がるところがある。明らかに。
 そして思ったことは「サイバーパンクでは伊藤計劃の『ハーモニー』を倒すことができない」ということだ。倒すことがあり得るとしたら、それは文学によってだけだ。
 脇腹が痛くなってきた。
  1. 2015/08/05(水) 23:02:41|
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丹念に描かれた暴力だけを残して

「ウォッチメン」。ウィキペディア見たら、全部ストーリーが書いてあって、フフッという笑みが漏れた。ネタバレします。

 最近ヒーローものの映画を見まくっているが、実は「ヒーローが悪役をぶち倒す」という構図が気に入っているからだったりする。例えば、「アベンジャーズ」なんて何も考えずに観られる映画で、みんなそれぞれ何か個人的事情をいるけど、そんなこと言ってらんないくらいにヤベェ敵が出てきたから倒そうぜ! 結託だ!という話だ。これがヒーローの原型、みんなが憧れるヒーロー像。
 「アイアンマン」になると、主人公が兵器製造会社社長だったけど、目の前で自分の作った爆弾が爆発して死にかけたから、今まで俺は間違ってたんだ、と改心したところ、「今までそれで一緒に稼いで来たじゃねえか!」とか言った奴をボコボコにするわけで、ちょっとごたごたしているけど、基本的に悪人をボコる(実際にはもっとストーリー複雑なんだけど、面倒臭かったのではしょった)。「スパイダーマン」は遥か昔に観たので全く記憶が無いんだけど、とりあえず悪役をボコってた気がする。「バットマン」も結局悪役ボコボコにしてた。

 「ウォッチメン」の悍ましいところは、悪役が冷戦という大きな物語であったところ。まさかニクソンをボコボコにするわけにもいかないので、とりあえずロールシャッハが囚人をボコボコにしてる。ダニエルもローリーも囚人をボコボコに。それくらいしかボコボコ枠が無い。悪がいない。
 だってこれはヒーローの映画ではなく、正義の映画なんだもの。
 舞台は冷戦下のアメリカ。ソ連とむちゃくちゃに仲が悪くて核戦争寸前。パラレルワールドらしいので、両陣営戦争始める気満々。「爆撃しろ」とかニクソン言っちゃう。
 突然だけど、「トロッコ問題」って一時期有名だったものがある。以下wikipediaから抜粋。

(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。
(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?


 こういう状況がヒーローの物語中にあったなら、彼らは大抵、第三の道(両方助ける)ことをするんじゃないかと思う。
 つまり、トロッコをA氏が自分で止める、とかいう方法。むちゃくちゃ強いヒーローなら、それができちゃうから、ほとんどの場合そうする。A氏のAはアメリカンヒーローのA、というわけ。
 だが、「ウォッチメン」は、容赦なくこのB氏を殺す。思い切り分岐器で、トロッコの方向をひん曲げる。
 世界の主要都市をDr.マンハッタンというチートヒーロー(?)の力を流用する新エネルギー兵器で破壊した。それによって、何百万人も死んだが、アメリカとソ連は、このDr.マンハッタンという「敵」の前に手を取り合うことを表明した。そうすることで、何億人という人々が救われる。
 正義のためには誰も殺さないようにするのがヒーローっぽいけど、そうではない正義の姿が映像として表現されている。都市が青白い光線で焼かれ、人々が消滅していくシーンを見て、これがヒーロー映画だ、と言えるんだろうか。そこにあるのは、僕らがよく想像はするけれども、表現されてこなかった正義のあり方だ。こういう正義の形もあるんですよ、いかがでしょうか、とまるで「選べる保険」みたいな体で見せつけてくる。映像として、表現として。それが非常に面白かった。
 
 正義は存在する。
 けど、実のところ、僕らは一度も「正義」というものに立ち会ったことがないんじゃないかと思う。今まで表現され、遂行されてきた「正義」っていうものは、実は「正義」の一側面にしか過ぎないんじゃないか、と。不完全な「正義」なんじゃないかと。決して「不正義」なのではなく。
 その不完全な「正義」を、完膚なきまでに見せつける、という試みと、それに対する自らの反応を考えなければ、この映画ってヒーロ映画でも正義の映画でもなくなってしまう。
 でも、「正義」はある。まだ終わりではない。
 最後に届けられるロールシャッハの手記は、そんな希望なのか絶望なのか分からないアイロニーを残して、映画は終わる。
  1. 2015/07/31(金) 00:13:13|
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「人間」を乗り越える「人間」

 バットマン「ビギンズ」「ダークナイト」「ダークナイト ライジング」を観た。
 2→3→1という順で観たけど、なんにも問題なかった。ネタバレとかいう概念のことはよく知らないが、そういうことがあるかも知れないので注意されたい(思いッきりしてるけど、ネタバレ食らっても遜色のない作品なんで是非)。

 ありえないくらい格好いい。
 アメコミヒーローって、どいつもこいつも謎のスーパーウルトラテクノロジーでスーパーウルトラ最強の俺を作っているけど、バットマンの中の人であるブルース・ウェインはむちゃくちゃ修行してる。ドラゴンボール並の修行量。生まれからしてスーパーウルトラ大企業の社長の息子というスーパーウルトラボンボンの癖して、両親を浮浪者に殺された衝撃から、身を以て犯罪を学ぶために自分から犯罪に走ってムショの中で犯罪者と喧嘩しまくるとかいうダークサイドっぷりを発揮した後、拾ってくれた師匠のもとで修行した挙句、師匠の家に火を放って師匠をボコボコにして帰宅、そのままスポッとウェイン産業の役員の席に着席するとかいう意味不明にハチャメチャな人生。そんでもって子供の頃、コウモリに襲われた恐怖を犯罪者どもにも思い知らせてやろうと、ダークヒーローバットマンが誕生する。
 ラーズ・アル・グールという悪役が実行した悪行って、つまるところ、「一部が腐ったから全部焼却しよう」という発想だ。ゴッサムという街は堕落している、だから街を潰してしまおう! という頭がいいんだか悪いんだかよく分からない思想が動機になっている。それに対するバットマンの反論は「(街が腐ってても)良い人はいる」というとても頼りないものだ。第一、バットマンというヒーロー自体が、他のアメコミ・ヒーローに比べるととても頼りない。地道に積んだ修行と、科学の力で普通の人とのアドバンテージを得ているけど、アベンジャーズの面々に比べたら(女スパイの人と「そして殺す」の人を除けば)「一般人」と認められてしまうようなヒーロー。そして、自らもずっと苦悩しているヒーロー。
 でも、バットマンのいいところはこういうところにある。「ヒーロー」が弱く見えるんだ。頼りなく見えるんだ。それでも、彼は人々を信じている。バットマンは「人間」を信じているからこそ、最後に勝利することができている。「ダークナイト・ライジング」のラストシーン、「ヒーローはどこにでも居る」という彼のセリフが、そのことを非常によく象徴している。彼は「善」の代表として、「悪」と戦っているのではない。「人間」の代表として、「人間」と戦っているのだ。
 ラーズ・アル・グールの「一部が腐っちゃったから、全部破壊してしまえー」という理論は、これっぽっちも人間を信用していない。むしろ、人間を恐れている。「殺人犯が観るようなアニメやゲームは規制しろ!」というような論者と、さして変わらない事を言っているのです。一部を全体と見なす、全体主義者。これではどちらが理想主義者かわかったものではないなあ。
 ベイン(ダークナイト・ライジング)は上下の階層をひっくり返そうと、ゴッサムに核を持ち込む。そして、搾取(というかまあ、収奪)を繰り返してきた上級階層の人々を、片っ端から裁判にかけて「追放or死刑」という頭がいいんだか悪いんだか分からない刑を執行していく。それで革命だ! というわけだけど……これって、別に革命でも何でもないよなあ。ただの暴力の行使、そして抑圧です。それと対峙する(バットマン曰く「良い人」の)ゴードンやブレイクの行動が並行して描かれていくけれど、「家族と過ごすんだ」と頑なになる警察官に、ゴードンが「我々がどうにかするんだ!」と強く言い放つシーンがある。『我々』が、どうにかするんだ! この格好良さよ……なんといえばいいのか分からなくなってきたが、とにかく格好いい。
 ジョーカーという男、ちょっと身近に居てほしくない。バットマンの悪役って、みんなとんでもない過去持ち過ぎじゃないか。ヒーローってこのタイプの悪の前では、手も足も出ないんだ。恐怖に煽動された民衆、という人間の底の前では、バットマンは身動きが取れない。だって、彼は「人間」というものの存在を前提として活躍しているのだから。ラストシーン、タンカーで震えながら沈黙する人々の存在がなければ、バットマンはジョーカーを倒すことができなかった。ヒーローはいつだって、小さな声で助けを求める者の前にしか、姿を表わすことが出来ないのだから。ノーラン監督三部作のうちで、バットマンのヒーローとしての本質が表れていたのは、まず間違いなく「ダークナイト」だろう。「リブート」という企画ならではの、素晴らしい作品だった。

 肉体的に、「バットマン」に出てくるヒーロー並びに悪役は、アメコミ的に大して強くない。多分全員、アイアンマンにワンパンで負けるだろう。けれど、精神的な強さはピカイチだ。ジョーカーとかまず間違いなく、東京を滅ぼせる強さを持ってる。
 そして、我々の暮らす世界に現れるのは、いつだって精神型の悪だ。「人間」を信じられなくなった時、奴らは必ず現れる。その時、まず頼らなければいけないのは、自らに宿るヒーロー、自分自身の「人間」に他ならない。
  1. 2015/07/29(水) 23:53:27|
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じゃーん!

 2週間で長編小説を書き上げました。過去新記録です。
 文量としては230枚くらい。これを文庫本基準に直すと、なんと78枚という脅威の軽さ。ふつうの新人賞は100枚くらい要請してくるので、全然足りません。ただ、読み直して説明不足なところや、補っておきたいところを加えれば、もうちょっと膨らむものと思います。
 で、一度ざっと読み直してみたんですが、文章が下手くそすぎて死にたくなりました。先日の記事で100枚を超えるとバテるとか書きましたが、最初からバテてます。赤入れするのが面倒なくらい。これは人に見せられる状態じゃないので、結構大幅な推敲が必要になりそうで、今から憂鬱です。推敲が一番嫌いなんです。
 内容的には、つまらないと言われるだけの内容になったと思います。自分で読んでて眠くなりました。目論見通りで良いのですが、自分が読者になってみるとすごいイライラしますね。
 というのも、自分は大筋は決めるものの、ディテールは書きながら考えていくので、理屈として行き詰まるところはすごい文体が荒れるんですね。それこそ文法とか、てにをはが機能しなくなるくらいに笑 「文体が耐えられない」ってああいうことを言うんだな。それが生のママでているので、すごい読みづらい。自分が書いたものなので、何を言わんとするかは分かるんだけど、きっと知らないで読む人は分からないだろう文章。
 それと、やっぱり登場人物の生成変化の「ステップ」が見えにくい。というのも、作品を書いてる最中はずっと頭のなかに彼女ら/彼らが存在するので、書いている段階とは関係なく、自動的に成長していくのですね。それが突然露呈するので、「お前いつの間にそんな!」っていう事態が出現する。でもこれって、小説とかシナリオ書き始めの人には絶対現れる症状な気がする。何年間初心者を続ければいいんだ俺は。
 そして最後に、世界観の設定をちょっと面倒臭いものにしたんですけど、僕はSF特有の「その世界観を一人称で語る」というのがなんとなく嫌で、例えば、20XX年、こういうガジェットが開発されて人々の生活はこれこれこういう風に変化した、とかいうモノローグというか、説明調というのがなんだか変だなあ、って思ってました。歴戦の兵士であるソリッド・スネークが「戦争は変わった」というのならともかく、今の時代しか生きたことのない人が、一人称で語ったりしませんよね。現代が舞台の小説で、スマートホンが発表されてから数年、その衝撃的な席巻によりガラケーは駆逐されていった……なんて書かないし、SFの世界に生きる人もそういう感覚でその時代の技術を享受しているんだろうと、敢えて最小限の説明しかせずに、やってみた。
 その結果、全然わかんない!
 説明しないとダメだこら、ガハハ。というわけで、SFが現在の世界を相対化するジャンルである限り、この手法は恐らく永遠に生き残るでしょう。それか、限りない近未来を描くか──『虐殺器官』みたいに。

 そんな具合で大幅推敲をしていきます。一番嫌いな作業ですが、頑張ります。
  1. 2015/07/29(水) 00:47:37|
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怒らせて、食べるお話

 どうしてあなたはここに?
 何を考えてあなたは行動したの?
 あなたはどう思いますか?
 なにか考えはありませんか?
 
 何故? どうして? なんで?
 お答え下さい。喋って下さい。語って下さい。プレゼンして下さい。意見を出して下さい。対案を出して下さい。

 スピルバーグの「宇宙戦争」では、トム・クルーズに息子やおっさんがまくし立てる。
「他になにか方法があるのかよ! 言ってみろよ!」
 トム・クルーズは黙っている。
 ノーラン「ダークナイト」ではジョーカーがまくし立てる。
「自分が死にたくなければ誰かを殺せ」
 クルーザーに閉じ込められた人々は、黙っている。

 あなたはどんな人間になりたいの?
 将来どんな職業に就きたいの?
 十年後はどうなっていますか?
 やってみたいことは?

 自分らしく。ありのままで。自然体で。お前らしく。自分を受け入れて。
 
 ……で、それのどこが、どうして、何故、あなたらしいのですか?

 そんな感じの小説を書いています。200枚程度を目標にしていたら、余裕で突破、多分250枚くらいいきます。
 今までずっと純粋な文字数で文量を図っていたので、書き上げた後に枚数に収まらないという事件が多かったけど、アウトラインプロセッサを変えてみたら、枚数表示ができるようになったために、文量の管理がしやすくなった。
 それで分かったのですが、100枚を越えたあたりからバテてますね、文体が。手癖で文体をキープしていけるのは、100枚が限界のようです。そのあたりから、色々とぐにゃぐにゃしてくる。いろんな人が神経過敏になって、性格が変わったり、セリフが刺々しくなっていく。地の文の肩身がせまくなって、セリフばかり続いて、気がついたら空中にいる。トムとジェリーみたいな。
 「告白して」「イチャイチャして」「失恋する」っていうだけのお話を書いてます。コンセプトは「つまらないものを書こう」。「文句を言われるものを書こう」。批判から身を守るための予防線ではなく笑
 何がテーマなの、とか、この世界は何なの、とか、どうしてこういう世界になったの、とか訊かれても「知らん」と答えるしか無い。むしろ俺が知りたくて書いてるんだ、と。そしたら唐突に『ノルウェイの森』を許せる気になってきてしまった。もう読むことはないと思いますが。

 あるキャラに、「欲望の投影」について語らせたのですが、これはそのまんま作者に帰ってくるブーメランであることに、通学途中の電車内で気づいてしまった。
 斎藤環センセ曰く、アニメとかマンガとかの少女像はオタクたち自身のペニスへの執着が投影されたもの、だという。あんなに現実の女子とかけ離れた女の子像だというのに承認できてしまうのは、その女の子が自分の性的な欲望を満たしてくれるからだ。まあ、これは割とアイドルなんかにも言えると思うし、消費される情報としての身体にはこの種の「欲望の投影」があると思う。だから、可愛いって正義だよね、エロは地球を救う、とか言ってるのは、俺のちんこが正義だ、とか地球を救う、とか言ってるのとさして変わらない、と。さぞかしデカイんでしょうねえ、とか思っちゃう。
 そのことをちょっと言わせてみたんだけども、でも……ここで僕が作ったキャラっていうのは、どうしても、どうしても絶対に、僕自身の欲望の投影になっちゃうんだよね。その平面上では、つまり作品という物語世界に於いては、キャラが相手のキャラの欲望を投影を拒否することは簡単にできるけど、作者がキャラに欲望の投影をしないのは非常に難しい。そして、キャラクター文化というのは、こうやって成り立ってるんだな、と改めて実感。欲望によって生み出されたキャラクターたちに、欲望について語らせる……これでいったい何が見えるんだよ、と。
 で、欲望もなしに、プラトニックでもなしに、恋愛を語ることのありえなくらいの難しさに直面してしまった。
 ディフェンダーにぎっちりと囲まれても、それでもその微妙な隙間を縫っていかければいけないような、そんな感じになっていて、文体が崩れる崩れる。僕は一体誰にこの文章を書かせているんだ、と目が回ってくる。
  1. 2015/07/25(土) 01:20:09|
  2. 尋常の日記・雑記
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それって虚構、フィクション

 「バケモノの子」を見てきた。うふふ。
 泣ける映画なので、友達と一緒に行ったりすると気にして存分に泣けなかったりするので、一人で観に行くことを推奨します。ちなみに僕は「コクリコ坂から」を一人で観ましたが、精神的負荷がデカいのであんまりオススメはしません。

 こう言っちゃなんですけど、「普通の映画」でした。嫌だなあ、この言い方。
 とても良作だと思うんですよね、映像技術面では本当に言うことがない。渋谷交差点のあの夥しい人々の群れを、一人ひとり動かすことによって表現するという、恐ろしい執念と、戦闘の動きの滑らかさと、演出効果の馴染み方と、圧巻。基本的に退屈することはない。
 だから、普通に良作、という意味で「普通の映画」。本当に嫌なんですが、一応褒めているつもりです。
 何故普通か。順番に書いていこう。
 親子愛がテーマの作品だったけれども、実は親子愛じゃないんですよね、これ。「サマーウォーズ」の感想の折にも触れたこと、それは「この物語をやるなら別に家族じゃなくても良かったのに、わざわざ家族でやった意味」ということです。その意味の本質を僕は、家族というものが、その存立自体、自明でもなんでもない共同体であることを知らしめていること、と言った。
 で、「バケモノの子」はそれを思い切りやった。
 主人公の家出少年蓮は、バケモノの熊徹に育てられる。これは、虚構としての親子という家族であって、ホンモノではない。ホンモノではないけれども、そこには確かに親子の絆と愛があったのだ! ……というのが非常にざっくりとした総括になる。
 で、この作品はそれを非常に、上手に語ってみせた。今までの細田作品ではっきりと提示できていた問題を、上手に解いてみせた、というものだった。
 だから、「普通の映画」です。こうやって解くのじゃ、とでも言うような、あまりにも良く出来た模範解答のような映画。
 「おおかみこどもの雪と雨」が馴染まなかった人も、この作品の後では多少見方が変わるんじゃないか、「サマーウォーズ」の見方も変わるんじゃないかな。
 「親であるから」、ではない、「子であるから」ではない、そういう思考停止状態から、僕達が家族という共同体を考え直すにあたって、とてもラディカルな部面を、最もキャッチーに描き出した作品だった。
 で、解答編のような意味合いの強い作品だったように思われるので、スッキリと終わってしまうのだ。それまでの細田作品がもたらしていた不穏さ、そして鑑賞後に糸を引くような感慨が、あんまり無かった。あの感覚を読み解くことが、なんとなく楽しみだっただけに、なんとも普通の映画だったなあ、と思ってしまったわけだ。
 ただ、やっぱり面白いことには変わりないので、周りの人から「とりあえず有名だから観に行ってみたんだろう」と思われても良いような人は観に行くことをオススメする。

 ちなみにヒロインの子は、割と重要な役割を担っていたんだけれども、あまりにもバケモノの人たちとの世界が濃厚すぎて、ちょっと食われ気味で、友人たちの評判はあまり良くなかった。恒例の可愛い女の子を求めている人はちょっと注意。
  1. 2015/07/22(水) 00:54:44|
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プロフィール

可児 珊士

Author:可児 珊士
大学生。
元音楽(合唱)部員。旧BASS。
ギターが欲しい年頃。
作家志望。
本陣:埼玉
カラオケ行くと声的な意味で別人化。

アイコンは柊氏より頂きましたΣd(゚∀゚d)

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